学長ブログ

18. 幻日

11月にはいって秋晴れの日が続きました。11月2日、埼玉県川越市と入間市で幻日が見えたというニュースが目に留まりました(weathernews、11月2日川越市撮影13時、入間市撮影14時)。太陽の両脇に小さな幻の太陽が虹色に輝く現象です。その日埼玉は秋晴れで気温は朝方6℃ぐらいであったのが、午後には20℃近くに上がっていました。天気が下り坂の時に薄雲が広がってくると「幻日」が見られると、Weathernewsの解説にありました。ネットにあげられた写真を見ると、太陽の周りにはうっすらと雲が見え、太陽を通る水平線上の両脇に虹っぽい輝きが見えます。

このニュースに接して、カナダの冬になると毎日のように見えていたサンドッグ(sundog)のことを思い出しました。北米大陸中央部の、プレーリーと呼ばれる大平原にあるカナダ サスカチェワン州のサスカトゥーンに7年あまり住んでいました。北緯52度。北海道の宗谷岬が45.5度ですから、相当北に位置します。12月には-20~-35℃の寒い日が続きます。-40℃に達することもありました。乾燥しているので雪が降っても、雪の結晶がそのまま落ちてくるような感じです。道は交通量の多いところは雪が取り除いてありますが、歩く道は踏み固められていて用心深くそろそろ歩くことになります。

冬のある朝、車で大学に向かっているとき、目の前の南サスカチェワン川の向こうに朝日が昇る美しい光景を見ました。朝日は大地から顔を出して大きく光り、その輝く光の帯は空に向かってまっすぐ上に伸びているような感じです。さらに車を走らせると、南サスカチェワン川のほとりに沿って植えられた木々に隠れていた、本物の太陽が現れました。それは強烈な光を出して、俺が本物だといわんばかりの輝きでした。実は最初に見えたのは、サンドッグ(sundog)と呼ばれ、モックサン(mock sun)とも言われる偽りの太陽、幻日だったのです。気象用語で幻日のことは英語でparhelion (複数形はparhelia)と言います。

朝日に伴って現れる幻日を写真に撮ることは難しいことです。太陽に向かってカメラを向けるからです。ある日、夕日に伴って現れた幻日を撮ることに成功。1979年2月、午後5時、気温は-25℃でした。住んでいたアパートの前の駐車場で撮った写真です。中央のホンモノの太陽は電柱で隠すようにして2枚の写真をつなぎ合わせています。太陽の両側に幻日があります。写真では少し色づいた幻日(輝点)は外向きに白い光がのびています。夕方の薄暗い感じに撮れていますが、日没は6時頃でしたので、写真の時にはまだ明るい午後の感じでした。プロが撮った写真も掲載しておきます。一つは地元の新聞に載った白黒写真で、サスカトゥーンで南サスカチェワン川越しに撮影されたものです。もう一つはサスカトゥーンの西500kmにある、隣のアルバータ州のロングビューというところで撮影されたものです。ともに見事に太陽と、その両脇に見える幻日を一枚の写真にとらえています。アルバータ州の写真では、幻日は太陽に近い方が赤く色づいている様子が写し出されています。

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カナダの冬には特異な自然現象がみられる。空中の氷の結晶の屈折現象により中心の太陽(写真中央)の左右に太陽と見間違えるほどの明るい偽の太陽、サンドッグができる。我々の住んでいたサスカトゥーンのアパートの前の駐車場で撮影。1979年2月半ば午後5時、気温はー25℃。

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サスカトゥーンの地元紙Star Phoenixに掲載された南サスカチェワン川越しに見えるサンドッグの写真。記事には適切な説明が添えられていたのでそのまま引用します。Whenever there are ice crystals or frost in the air, sundogs may appear on either side of the sun. These mock suns, properly called parhelia, occur when the sun shines through a thin cloud composed of hexagonal ice crystals. They can create a halo or luminescent ring and usually the inner edges closest to the sun will appear reddish, while the outer portions are white. (Nancy Russel, November 4, 1978, Star Phoenix)

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幻日。Cally Coman 撮影。場所はサスカチェワン州の西隣のアルバータ州Longviewの近く。幻日は太陽に近い側が赤色、太陽から遠い側が紫色となっている。

サスカトゥーンでは毎年12月の始めには、サンドッグフェステイバルというのがあって、クラフト〔工芸〕の展示と即売会が行われていました。地元ではサンドッグは冬の風物詩であり、極寒の象徴でもありました。その名前を真冬に行われるフェステイバルの冠に使うことによって、地元の青年たちが地域の活性化を夢見たのでしょう。幻日が二つの輝点(視点vision)であるように、自分たちの作品を通して自分を磨く夢と、地域を活性化するという二つのビジョン(vision)を追いかけたのかもしれません。このブログを書くにあたって、サスカトゥーンのことをネットで調べてみると、今もってそのフェステイバルが続いていることを知りうれしく思ったところです。どうしてsundogというのか、その由来はよくわからないようですが、ネットで調べると北欧神話の中で描かれている、太陽を両脇から襲う2匹の犬(狼)という説があるということです。確かに二つの幻日ということで、sundogsという複数形でも用いられています。

サンドッグは極寒の地では良く知られる自然現象ですが、最初の冬には気がつかなかったのです。その理由のひとつは日の出、日の入りの時刻にあります。サスカトウーンは高緯度に位置するため、12月になると日の出は午前9時ごろで、日の入りが午後5時ごろです。まだ薄暗い朝8時には出勤し、暗くなった夕方6時ごろ帰宅する生活だったので、日の出、日の入りを見る機会が少なかったのです。もうひとつの理由は、着るもののせいだと思います。昼間も幻日は見えることも多いのですが、とにかく歩く道は凍っていて、外を歩くときには、ダウンのフードつきの膝まで隠れるパーカを着ています。ファスナーを閉めて、首の周りをしっかり守り、ファー付きフードをしっかり被り、前方に突き出すように伸ばせば、耳を完全に守り、吐く息で顔の前にある空間を暖め、-30℃の冷気があっても顔の皮膚が守られます。つまり前方しか見えない状態になります。そんなパーカを着ていれば、滑らないように下を向いて歩くし、空を見上げるためにはフードを上げなければならないので、立ち止まってなかなか太陽を見上げるということをしなかったのです。

虹は太陽を背にして、太陽の反対側を中心とした視半径42°の円弧として現れますが、幻日は太陽を中心として視半径22°なので、虹の半分ぐらいの広がりを持っています。虹は空中に浮く球状の雨粒による光の屈折と反射で、太陽と反対側にできるのに対して、幻日は、地面に対してほぼ平行に空中に浮かぶ六角板状の氷晶による屈折によって像を結びます。六角板状の氷晶は落下に伴う空気抵抗のために地面に対してほぼ水平に浮かびます。太陽光が入射する面と出ていく面が、60度の角度をなすため、氷晶は頂角60度のプリズムの役割を果たします。屈折した太陽光は、太陽から22°離れた位置からやってくるように見えるものが最も強くなって、太陽の両側に二つ輝点ができるようになるのです。通常、六角板状の氷晶の並び方は地面に対してほぼ平行になっているものの、水平からのばらつきにより輝点の上下に光の広がりを伴うことになります。

太陽が地面に近い日の出や日の入りの頃には、半径22°の環と太陽を貫く水平線の交わる点に幻日ができます。太陽が高くなると氷晶による像は太陽を囲む半径22°のぼんやりした光の環となり、ハロー(halo)、暈(うん、かさ)、特に太陽の周りにできるということで、日暈(にちうん、ひがさ)と呼ばれています。

幻日はサスカトゥーンのような極寒の地で、空中に氷晶が浮いているところでよく見られる現象です。それでは、どうして11月の秋晴れの日に、埼玉県で幻日が観測されたのかという疑問が残ります。それは薄雲(うすぐも)が広がっていたことに関係がありそうです。雲には地上付近にできるもの、上空にできるもの、その中間でできるものによって、雲の形状が変わり、薄雲と呼ばれるものは5~13km上空でできるということです。ジェット機に乗っておよそ10km上空を飛んでいるとき、外気は大体―55℃になっています。日本では1km上昇するごとに、気温は約6.5°C降下することが知られており、埼玉の薄雲があった上空は十分温度が低くて、六角板状の氷晶が空中に浮いていたものと考えられます。ただし、サスカトゥーンで日の出、日の入りに際して見られるような、強烈な幻日は、極寒の地に独特のものといえるかもしれません。

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(1)虹:虹は空中の水滴によって太陽と反対側に視半径42°の円弧を描く。これは球状の水滴の中で光の反射、屈折によって引き起こされる。さらに外側に薄く虹が見えることがある。視半径51°で、これは水滴の中で2回反射が起こることによるもので、色の並び方が逆になる。

(2)幻日:幻日は太陽の両脇にできる明るい輝点で、幻日の上下に光が伸びる。日の出、日の入りの頃は特に輝きを増し、外側に雲のような白い帯を引く。

(3)幻日は空中に浮かんでいる六角板上の氷晶による屈折により起こるもので、反射によらないため、太陽と同じ側に太陽の両脇に、視半径22°のところに見える。

17. 「大学」、連携協定

知の拠点: 中部大学は知の拠点、学びの拠点として、学生・教職員をはじめとしていろいろな人々と結びついています。大学は地域の人々にとっても、開かれた知の宝庫であり、人類の英知が蓄えられているところでもあります。数年前にスウェーデンにある、15世紀に創設された北欧で最古の、ウプサラ大学を訪れた時に、大学が街の中に溶け込んでいるようで、大学とコミュニティの一体感を感じました。それは私が住んでいたテキサスの大学と街との一体感に通じるところがありました。今日は、これからの大学や高等教育を考えるに当たって、大学制度の歴史的なことに思いを巡らせてみます。それというのも我々は9月に3つの連携協定を結んだからです。

University:  universityという言葉は、ラテン語のuniversitus(ウニベルシタス)からきており、一つの組織としての学びのギルド(guild of learners)を意味していました。11世紀末に創設されたイタリアのボローニヤ大学は、町と教会によって認可された学生による大学で、学生団体が教師を雇用していました。学長(組織の長)も学生のリーダーがなり、レクトル(Rector)と呼ばれました。さらにuniversityの言葉のルーツuniverse、ラテン語の"universum" [ウニベルスム、unus(one)+vertere(to turn)]は一つになる(turn into one)あるいは全部ひっくるめて(all taken together)という意味で、宇宙を表しています。universityがめざしたものは、職業訓練の場というより、体系だった学問を学ぶ高等教育を実施するところでした。

大学制度: 日本には7世紀の天智天皇のころ、唐の制度を取り入れて、官僚育成機関として作られた大学寮というものがありました。さらに平安もしくは室町時代に創設されたと考えられる日本最古の学校、足利学校は16世紀にフランシスコ・ザビエルにより「坂東の大学」として紹介されています。現在の日本の大学制度は明治維新の頃にヨーロッパの教育制度を取り入れて作られたもので、ヨーロッパの教育の最高学府の制度を取り入れたときに、大学という名前が使われたようです。さらに、第2次世界大戦後にアメリカの制度が取り入れられて、日本独特の大学制度が作られていきました。

大学の発祥: そこで、いま全国で教育改革が進行するとき、ヨーロッパにおける大学の発祥の原点に戻って、大学のあるべき姿を考えてみることは意味のあることに思えます。人間の叡智が作り上げた学問体系つまり知の体系に接することができて、学ぶ者個人にとって何が問題であるのか、ひいては人間にとって何が問題であるのか、という問いに学ぶ者自ら答えを見いだすきっかけを与えてくれるところが、ヨーロッパの大学でした。中世ヨーロッパの大学にあった共通の4つの基本科目は、神学、法学、医学、リベラルアーツです。そしてリベラルアーツはさらに三学(トリビアム(trivium); 文法grammar、修辞rhetoric、論理dialectic)と四学(クアドリビアム(quadrivium); 算術、幾何、音楽、天文)の7つの科目構成となっていました。リベラルアーツの三学をみてみると、文法は言葉の使い方、修辞は説得力ある文章の作り方、論理は会話の中で論理的な議論をすることを表していることを考えると、三学はまさに、現代で強調するところのコミュニケーション能力といえるでしょう。そして四学は社会人として必要な知識・学問ということになるでしょう。こうした科目構成はギリシャ自然哲学の流れをくむもので、16世紀に、画家ラファエロがバチカン宮殿の署名の間の壁に描いた「アテネの学堂」からもうかがえます。そこには、哲学者プラトンとアリストテレスを中心に、両脇に音楽の神アポロンと、知恵の神アテナの彫像を配し、算術・幾何のピタゴラス、ユークリッド、天文のプトレマイオスはじめ多くの自然哲学者が描かれていて、知の体系を作り出した源を感じるところです。

Education:  大学における教育は、education【e(ex、out of)+duc(lead)】の言葉が示すように、語源的には引き出す、つまり個人の潜在能力を引き出すことであり、必ずしも、決められた望ましいと考えられる目標の姿に働きかけることではないでしょう。Educationの訳として使われた「教育」という言葉で理解されていたのは、人間には望ましい、こうあるべきという設定された姿があり、それに向かって人間を枠にはめていくという考え方であったように思えます。大学はeducation(個人の能力を引き出すプロセス)を通して、人格形成をする場であり、training(目的に向かって訓練するプロセス)を主とする場とは異なっています。大学で学ぶものは専門的知識そのものというより、物事を包括的に見て、その中で人間を豊かにし、人間性を高貴なものとするために、その専門的な知識が、いかに使われるべきかを考えることができる教養だと思われます。大学での教育の成果は、学業の成績が上がるかどうかより、学びを修めた一人一人が、その後の人生や生き方において、大きな影響を与えることができるかにかかっていると言っていいでしょう。一人ひとりの生き方が自分自身で見えてくれば、社会に出て活躍できる準備ができたと言うことになるでしょう。

社会の変化: ヨーロッパでは、16世紀から17世紀にかけて、コペルニクス(1473-1543、クラクフ大学、ボローニャ大学、パドヴァ大学、フェラーラ大学)、ガリレオ(1564-1642、ピサ大学、パドヴァ大学)、ニュートン(1642-1727、ケンブリッジ大学)に代表される科学革命と、その後に起こる産業革命は社会に大きな影響を与えました。大陸ヨーロッパでは大学での学びは、実践よりも学問色が強かったわけですが、15世紀初頭に創設されたスコットランドの大学では実学教育が重んじられており、18世紀には経済学者『国富論』のアダム・スミスや蒸気機関のジェームズ・ワットが、大学から育っています。近代化を急ぐ明治政府は、実学を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れたのです。その後大学における専門分野は、人文科学、社会科学、自然科学をはじめとして、広がりを持ち、日本においても、また世界においても大学の数は拡大してきました。人間にとって何が問題であるのか、という根源的な問いをするところの大学が、ややもすると技術的、職業的な知識体系だけを教える場となる恐れも出てきました。ヨーロッパで大学が誕生してから900年経ったこともあって、欧州の大学教育の見直しが行われ、1999年にボローニャ宣言が出され、欧州高等教育圏の形成を目指し、欧州連合の中での大学間の連携が始まりました。音程を決められた高さに合わせるときや、ラジオの周波数を合わせるときなどに使われるチューニング(tuning、調律、同調)と言う言葉で、ヨーロッパ各国の高等教育システムの互換性が図られています。現在も進行中のそのプロセスで興味深いことは、個別の教育プログラムの有効性や必要性について、ステークホルダー(stakeholder、利害関係者)との協議に基づいて検証することがうたわれていることです。チューニングにより大学間のつながりが生まれ、その動きは南北アメリカ、ロシアなどでも広がっています。

中部大学: 中部大学では、キャンパスが学びと文化の中心となり、学生、教職員そして地域の人々が交流を通して、ともに人間的に育っていく、そんな教育空間を作り上げたいと思っています。中部大学にとってのステークホルダーは学生・教職員・卒業生・保護者・校友(寄付者など大学の未来に関心を寄せる人々)、そして入学を考える生徒ということになるでしょう。中部大学ファミリーとして、卒業生の同窓会組織や保護者の後援会組織が、活動しています。7学部6研究科をもつ春日井キャンパスでは、専門を超えて学ぶ者が交差する空間があります。チューニングによって、他大学との行き来が盛んになり、学ぶものの教育空間の場が広がります。チューニングと言う概念を大学間から、社会と大学の関係にまで広げると、それは社会が必要とする学生を育てる教育環境を、われわれが作っているかを問うことであります。そこで、中部大学では、学ぶものの持てる才能を引き出すために、知の拠点としての学内における専門家集団を超えて、学外にも、あらゆる機会を捉えて、地域社会、世界に連携を求めています。つまり、様々な形で、大学以外のコミュニティとの連携を進めているのです。ステークホルダーとの協議を進め、教育改革を進めていくつもりです。

夏休み明けの9月は連携の動きが続きました。名古屋銀行と中部大学は、人材交流と地域経済に関する情報交換を通して、学生を巻き込んで地方の活性化を図ろう、地方創生の諸課題にともに取り組もうということで、協定を結びました(写真1)。

愛知学院大学と、教育研究及び社会貢献活動の分野で包括的に協力関係を築き、学びの世界を広げるために大学間連携に関する包括的協定を締結しました。中部地域における1万人を超える学生を抱えた二つの大学が連携することにより、学生・教職員の学びの教育環境を大幅に広げることができることを期待しています(写真2)。

春日井市に隣接する豊山町と連携・協力に関する協定を結びました。すでに春日井市とは協定を結び、様々な地域連携の活動がおこなわれており、それを今度は豊山町にも広げようというものです。豊山町には航空宇宙関連の企業、空港もあります。中部大学では来年、宇宙航空理工学科が開設されることもあり、様々な交流を期待しています(写真3)。

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(1)名古屋銀行の藤原一朗頭取と協定書に署名
(2)愛知学院大学の佐藤悦成学長と協定書に署名
(3)愛知県西春日井郡豊山町の服部正樹町長と協定書に署名

16. ベーゼンドルファー

中部大学には宝物がいっぱいある。その一つは間違いなく、ベーゼンドルファーでしょう。

第83回中部大学キャンパスコンサートが、9月16日に三浦幸平メモリアルホールで開催されました。今年2月にもこのステージで開かれた「百々あずさ ソプラノリサイタル」で、ピアニスト水村さおりのピアノ演奏を聴く機会があったのですが、今回は本学の教員でもある水村先生がキャンパスコンサートアドバイザーとして、春日井市が生んだ若き新星24歳のピアニストを紹介してくださいました。

450人の観客を集めたホールは、「演奏会の雰囲気はお客さんと一緒に作るもの」という、水村先生の言葉通り、凛とした中に、親しみのある雰囲気となりました。特に地元出身で、この6月に英国王立音楽院を修了し、国際ピアノコンクールでいくつも賞をとっていることもあって、若きピアニストに対して、会場は特別の感情があったように思いました。私の席の後ろで、上品なご婦人方が話の中に、慧君と言っておられるのが聞こえていました。

ピアニスト内匠慧(たくみけい)は気品のある容姿とともに、話す中に隠れたユーモアが混じっていました。ベーゼンドルファーは味わい深い音色を出すけれど、大音量が出しにくい特徴があるのですよと話したあと、演奏が始まりました。エチュード「無秩序」から始まり、弾き終わって、水村先生の質問で、内匠さんは電子楽譜を使っていることが明かされ、音楽の世界にも新しい科学技術が取り入れられていることを感じました。リゲティ、ベートーヴェンなど、たっぷり2時間のすばらしいコンサートでした。

三浦幸平メモリアルホールは、初代学長三浦幸平先生の生誕100年を記念して建てられ、1992年5月13日に開館披露が行われ、披露の会のあとその場でピアノコンサートが開かれています。ホールは音響効果に注意が払われてコンサートに最適となるように作られており、その披露に合わせて、ベーゼンドルファー・インペリアルのお披露目が行われたわけです。

オーストリア・ウイーンで作られたピアノの名器ベーゼンドルファー・インペリアルですが、近づいてよく見ると驚いたことに「1991.6.22 Paul Badura-Skoda」のサインがありました。パウル・バドゥラ=スコダは現在90歳になるウイーン三羽烏の一人といわれるピアニストです。

1992年6月13日に第11回キャンパスコンサートが三浦幸平メモリアルホールで開かれ、それ以降ベーゼンドルファーが春日井市民、そして中部大学学生・教職員を楽しませてくれます。それから25年が経ち、第83回コンサートを聴きながら、名器ベーゼンドルファーが一流ピアニスト水村先生を本学に引き寄せ、さらに、世界で活躍する一流の音楽家たちとつながっていくのだなと、思いを巡らしていました。

中部大学には宝物がいっぱいある。
11,000人を超える学生と1,500人からなる教職員一人ひとりが、宝物であり、大事に大事にしたい存在だと、ベーゼンドルファーの響きを聴きながら考えました。

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三浦幸平メモリアルホールのベーゼンドルファー・インペリアル

15. 軍事研究

9月15日、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが、北海道襟裳岬東方の約2,200キロの太平洋上に落下したというニュースが飛び込んできました。その少し前には核開発に従事している科学者を、北朝鮮では英雄視していると伝えられました。

一方、日本では軍事技術に応用可能な研究に対する助成として、防衛省の外局である防衛装備庁が、110億円の予算で、14件の研究課題を採択したと発表しました(8月30日、中日新聞)。

さて、今日は軍事研究に関連して、横浜国立大学工学部の安全工学科を立ち上げた北川徹三先生の話をします。1960年代のこと、私はできたばかりの学科に入学し、北川先生から安全工学を学びました。先生は京都帝国大学大学院で原子物理学者、荒勝文策教授の元で、1937年まで学ばれました。当時の日本は、第1次世界大戦(1914-1918)の戦勝国として国際連盟の常任理事国でしたが、満州国建国(1932)を全加盟国から非難されたため、国際連盟を脱退(1933)し、日中戦争が起こり(1937)、第2次世界大戦(1939-1945)が始まろうとするころでした。

そのころアメリカではマンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾の開発が進んでいました。日本でも、ウランの分離による原子爆弾の研究に取り組んでいたのです。東京帝国大学を卒業して理化学研究所で研究していた仁科芳雄(1890-1951)が陸軍の研究に携わり、京都帝国大学を卒業した荒勝文策 (1890-1973)が海軍の命を受けて京都帝国大学の研究室を中心に、京都帝大の湯川秀樹(1907-1981)、名古屋帝大の坂田昌一(1911-1970)をはじめ大阪帝大、東北帝大の物理学者らとともに原爆開発にかかわっていました。

北川先生は京都帝国大学を出て、東京にある海軍の研究所で働いていました。そこで、1945年8月6日を迎えることになったのです。先生の働いていた研究所に海軍省から電話で、広島が特殊爆弾で被爆したとの知らせが来て、密命を受けて研究所から10人の調査団が広島に送られます。

調査団に加わった37歳の北川先生は、8月8日早朝には廃墟となった広島に入り、現地調査。翌日8月9日、同じような爆弾が長崎に投下されたことと、ソ連が対日宣戦を布告、満州に侵入という知らせが届きました。急遽、調査団の大部分が東京に戻ることになるも、北川先生は10日に広島で予定されていた陸海軍合同研究会に出席。研究会で、仁科芳雄博士、荒勝文策教授らとともに特殊爆弾は「原子爆弾ナリト認ム」と結論。この報告が終戦の判断に影響を与えたとされています。先生が東京に戻られてすぐに8月15日の終戦となりました。

調査団のことは、1986年に出版された「原子爆弾災害調査の思い出―一物理学者の見たもの」(篠原健一、Isotope News)に記述があります。そして2013年に出版された「証言録 海軍反省会」の中で、海軍の核兵器研究の項目に掲載されています。北川先生の名前は証言録の中で出てきます。三井再男海軍大佐の、被爆地調査についての証言の中に、

「今の水を飲むなという話ね、そういうことを言ってもらいたかったんです。安井(保門・兵51)さんと一緒に行った北川(徹三)という技術中佐も、それから早川(龍雄・技術中尉)もあれもみんな血尿が出ているんですよ、帰ってから。水を飲んでいるんです。放射能被害」

(原文のまま、安井とは当時、調査団の団長であった安井保門海軍大佐のことで、その団員の中に北川先生がいたということです。)

さらに、2015年に京都大学で、荒勝研究室に属していた研究者が残した研究ノートが見つかっています。終戦後、連合国総司令部が理研や京都帝大を捜索し、原爆開発の資料をほとんど持ち去り、歴史の検証ができない状態になっていたようです。

我々学生に対して、原爆のことについて語ることがなかった先生は、写真を含めた調査記録を鞄にひとまとめにして保存されていたそうです。先生は1983年、76歳で亡くなられました。息子さんが、北川先生の残されたものを広島のミュージアムに寄贈されています(中國新聞、2014年5月12日)。その中には広島で撮られたきのこ雲のオリジナルプリントもありました。晩年、北川先生が残された文章に、「私がいま一生を捧げて安全工学に専念する動機になったものは、この原爆調査ではなかっただろうか(中略)調査を体験した者の実感として、再びこのような惨害が繰り返されないように、世界の核軍備をもつ国の人々に訴えたいと思う」とあります。

あまりにも悲惨な広島の現実を、被爆直後に見ることになった数少ない日本人科学者の一人であった先生は、容易に言葉に出せるものではなかったのでしょう。私をはじめクラスのものはだれ一人、先生から直接原爆の話を聞くことはありませんでした。ただ安全工学の考え方を我々に教えることで、科学技術は人類のためのものである、ということを強調されていたのでしょう。高度経済成長という名前に隠れて、経済最優先の社会で進む環境汚染・環境破壊に警鐘をならしておられたのかもしれません。

アメリカの原爆開発は原爆の父といわれたロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主導者として、その下にはのちに水爆の父といわれたエドワード・テラー(1908-2003)をはじめ、ヨーロッパから亡命してきた多くの物理学者がいました。日本でも、陸軍・海軍のもとで日本を代表する物理学者、仁科芳雄(クラインー仁科の散乱断面積公式、1946年文化勲章)、荒勝文策 (原子核人工変換実験、1961年紫綬褒章)、湯川秀樹(中間子理論、1949年ノーベル賞)、坂田昌一(素粒子の坂田模型、1950年恩賜賞)らが原爆開発にかかわってきたのです。

中部大学では2016年4月に、本学の研究者は戦争を目的とする科学研究は行わないとする申し合わせ事項を決めています。また、日本学術会議は今年4月、大学での軍事的研究を問題視し、防衛装備庁の研究助成制度について、政府による介入が著しく、問題が多いと指摘しています。

14. 夏の終わり(2) 竜巻

ドロシーは犬のトトと一緒に不思議の国オズにいき、そこで魔法使いと出会います。「オズの魔法使い」で、ドロシーとトトを不思議の国に連れて行ったのは竜巻でした。今日は夏の報告とともに竜巻の話題です。

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8月7日立秋の日に、台風5号によって、大荒れの天気となった東海地方(天気図[1])。愛知県では午前11時から午後10時まで、5度にわたって竜巻注意情報が出され、春日井市では一日中断続的に、雷注意報がでていました。午後4時半ごろ、豊橋で竜巻被害が伝えられました。春日井では、夕方雷と稲妻がひどくて、慌ててコンピュータの電源を落としたら、その後再起動時にエラーが出て、コンピュータをもとの状態に戻すのに、大変な時間を使う羽目になりました。

8月9~11日はオープンキャンパス。11日は雨に降られましたが、それでも3日間で9300人来学(写真)。入学センターが中心になって、教員、職員と学生、そして中部大学マスコットのちゅとらがおもてなし。まさに中部大学ファミリーが総出で高校生を歓迎している気がしました。

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高校生が熱心に聞き入る模擬講義。オープンキャンパスでは、ちゅとらが大活躍。

8月18日。真夜中近い23時35分。スマホに緊急警報の知らせ。避難勧告。この日春日井市は朝から不安定な天気で、怪しげな空模様と大雨が続く。豪雨となり、東濃地方で庄内川の上流にある土岐川の水量が増え、庄内川が増水して氾濫寸前までいきました。情報に気を付けながらも、日付変わって午前0時40分、大雨警報・洪水警報と春日井市の一大事が続く。ようやくすべての勧告、警報が解除されたのは19日午前4時32分。18日0時から19日午前4時までの28時間に、春日井市近辺で雨量は200ミリを超えたそうです。日本海および日本列島の東にある低気圧に向かって南から暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定となり豪雨がもたらされたのです(天気図[2])。愛知県西部では午前中に一度竜巻注意情報が出て、その後午後8時半以降真夜中まで何度も竜巻注意情報が出されていました。

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この夏日本中、豪雨に見舞われるところが多く発生しました。ところによっては竜巻も発生しています。どうして日本でも竜巻が発生するのだろうかと思って、ここでテキサスの竜巻の話をすることにします。私の住んでいた地域は、竜巻でよく知られていたのです。

まず私がスケッチしたアメリカの地図を見てください。アメリカは面積が日本の25倍あり、南部にあるテキサス州だけでも日本の1.8倍あります。アメリカ大陸は海に囲まれています。西に太平洋、東に大西洋、南にメキシコ湾があり、そして北には北極海があります。大陸の中では海岸沿いに南北に延びる二つの大きな山脈によって特徴付けられています。西にロッキー山脈、そして東にアパラチア山脈です(図)。南北に位置するメキシコ湾と北極海、そして二つの山脈が竜巻発生に大きな役割をしています。竜巻発生はロッキー山脈の東、アパラチア山脈の西側に集中しています。

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私が住んでいた西テキサスにあるラボック市は、春になると必ず短時間の豪雨を伴った竜巻に襲われていました。竜巻街道(Tornado Alley)と呼ばれるところに位置しているのです。1970年5月には、市が壊滅的な打撃を受けています。竜巻が市の中心部をなめるように移動して壊滅させたのです。竜巻スケールはF5(住家は跡形もなく吹き飛ばされ、自動車、列車などがもち上げられて飛行する)だったそうです。竜巻の規模を表すために発生した被害の状況からFスケールが使われます。気象庁によると日本ではこれまでにF4(住家がバラバラになって辺りに飛散し、列車が吹き飛ばされる)以上は観測されていないということです。

その後レーダーを使って雨雲の動きを観測することができるようになり、竜巻予報が出るようになっていました。テレビ画面の左下コーナーに小さな記号が現れるのです(図)。雨雲が現れて、猛烈な雨と雷を伴う嵐が来るときは黒雲の下に稲妻のマークがでて、雷を伴う嵐(severe thunderstorm)に注意。そして竜巻が起こる条件がそろった場合には、竜巻マークが現れます。白塗りの竜巻印は竜巻注意報で、竜巻印が真っ黒になると竜巻警報です。警報が出ると、もうどこかに身を隠さなければなりません。外にいるときに突然黒雲が現れて、辺りが暗くなり、黒というより、恐ろしくて汚い緑色を帯びたような黒雲が見えたら、竜巻が空から下がってきて地上に到達(タッチダウン)する可能性大です。

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春になると、メキシコ湾で暖められた湿った空気がロッキー山脈に沿って北上し、一方北極海からカナダを通って、ロッキー山脈に沿って南下してくる冷たく乾いた空気とぶつかり合うのが、我々の住む西テキサスのあたりだったのです。竜巻の発生メカニズムはまだ完全には解明できていない状況ですが、テキサス工科大学で行った講義で使った図を使って、豪雨を伴った竜巻が生まれる様子を説明してみます。

湿った暖かい空気が、乾いた冷たい空気とぶつかり合うところで、湿った暖かい空気が急激に上昇することにより、温度の低下が起こり雲ができ、発達した雲は短時間で巨大な積乱雲となります(図参照)。積乱雲のてっぺんは上空20kmにも達することがあります。通常の雨雲は数百メートルですから、その高さはとてつもないものです。そして雲の中で、風が一様でなく吹いていると、回転を始めることがあり、地上では上昇した分の空気を補うように周辺から空気が吸い上げられていきます。スーパーセルと呼ばれる特別大きな積乱雲の中では、上下の風向差が円筒状の渦を作りだし、細長い風の渦が上昇気流によって不安定となり、細長い円筒が折れて、円筒の先端が漏斗状になって地面に向かって伸びて来ることがあります。いわゆるタッチダウンによって、地上の家や自動車までもが吸い上げられていくことがあるのです。ピンポイントで、狙ったものだけが吸い上げられていくようで、ここにオズの魔法使いの話ができる素地があります。

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ここで、春日井市の夏に話を戻します。8月7日、台風接近時15時の天気図と、18日15時の天気図を、再び見てみましょう。アメリカ大陸で起こるような竜巻が発生する条件が整ったのでしょうか。

7日は日本の南にある台風が、暖かくて湿った空気を北に向かって運んできて、北海道の東にある乾いた冷たい空気を含んだ低気圧とぶつかりそうな気配です。18日15時の天気図によれば、やはり、日本の南にある湿った暖かい空気が、日本海および日本列島東に位置する乾いた冷たい空気を運ぶ低気圧とぶつかりそうです。7日、18日とも空気の流れが、日本列島に沿って、南から暖かく湿った空気、北から冷たく乾いた空気のぶつかり合いとなっているように思えます。まさにアメリカ大陸でいつも春先に起こっていたような竜巻現象が起こる条件が作られているようです。そうすると日本列島自身が、まるでアメリカ大陸におけるロッキー山脈のような働きをして、日本列島に沿って南から来る湿った暖かい空気と、北から降りてくる乾いた冷たい空気がぶつかり、その結果日本列島の海岸沿いが竜巻に襲われたのかもしれません。もし湿った暖かい空気と、乾いた冷たい空気が日本列島の西側でぶつかれば、日本列島の西側海岸沿いに竜巻は、同じように起こるかもしれません。

地球温暖化に伴って起こる、太平洋海域の温度上昇は、暖かく湿った空気を大量に作り出し、これまで起こっていた自然現象を、とてつもないスケールに広げているように感じるところです。

追記:このブログを書いてから、アメリカでもこれまでにないハリケーンが大きな被害をもたらしていたのでここに付け加えておきます。8月27日、ハリケーン「ハービー」はテキサス州を襲い、ヒューストン周辺では24時間に610ミリの雨を降らせ、ヒューストンの大半を水に浸からせるという未曾有の洪水を引き起こし、米史上で最も経済被害が大きいハリケーンの一つといわれています。しかし9月10日にフロリダ州を襲ったハリケーン「イルマ」は、ハービーを上回り、複数の都市で洪水、大規模な停電を引き起こしていると伝えられています。

13. 夏の終わり(1) 白内障

久しぶりに書きだします。
8月の初めに左目の白内障の手術をして、日帰り手術でしたが、その後今に至るまで、一日4回の目薬を差すことになり、ゆっくりとモノを書く心のゆとりがなくなっていたのです。白内障手術ではレンズの役割をする濁った水晶体を取り出して、人工レンズを入れてもらいました。新しく入った左目の人工レンズは遠くに焦点が合うようになり、眼鏡なしで人の顔がはっきり見えるようになりました(写真)。遠くから人の目元がはっきり見えるのは感激でした。これまではそこまではっきりと見えていなかったことに気がつきました。ところが術後、日が経つにつれて、右左の視力の差から、疲れやすくなり、一日の終わりにはぐったりとしてしまうのです。今のところ眼鏡なしで、遠くは左目で、近くは右目で見るというところです。これまでは左目は眼鏡でも視力調整に限界があったわけです。これは視力が落ち着いた2か月後に眼鏡を作ることにより調整できることを期待しています。

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夏を振り返ってみるところからブログ再開です。今回は夏の近況報告です。

7月の後半はまるまる4日かけて、7つの学部と6つの大学院研究科の正副学部長・研究科長、学部事務長と学長・副学長との個別面接を実施、各部署の現状と今後についての議論。特に予算が関わるところを中心に新規事業について意見交換です。

7月31日。特に教育面で顕著な活躍をした教員の教育活動顕彰授賞式。17人に教育活動優秀賞、そして3年間を通じて学生の授業評価等で優れた評価を得た1人と、5年間スポーツ顧問・監督として学生指導に取り組み成果を上げた1人に特別賞を授与しました(写真)。専任・非常勤教員1006人の中から、厳しい審査を経て選ばれた先生方は中部大学の教育者としての手本となります。

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8月3日、学校法人中部大学の併設中学校と二つの高校の運営に関わる先生方と、大学側から関係者が集まっての研修会を開きました。10時間かけて、中学・高校の現状分析と今後の教育方針についての議論をしました。それぞれの学校に中部大学の冠がついて2年目となります。つまり、「中部大学第一高等学校」、「中部大学春日丘中学校・高等学校」と名称変更することによって、呼び名が変わっただけですが、この研修会を通して中部大学ファミリーの結びつきがより強まったように感じるところです。

8月5日は大学内の三浦幸平メモリアルホールで、中部大学学長杯争奪LEGOロボットコンテスト。これは小中高生を対象にしたもので、自律型ロボットによる国際ロボットコンテストの国内予選会を兼ねています。小学生、中学生、高校生が東海地区から集まり、会場は熱気に包まれていました(写真)。工学部で3年前に設立されたロボット理工学科の学生・教員・職員が中心になって、また来年4月設置の宇宙航空理工学科の先生方・事務職員の協力も得て運営が行われました。

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12. 爛柯軒(らんかけん)

訪問客があり、緑の多いキャンパスを案内しました。時間がなかったので、目指すは洞雲亭と爛柯軒です。

1号館から出発。正門を背後に講義棟9号館を前に見る時計塔のある空間に出ます。ここは正門からまっすぐに伸びてキャンパスを縦断するメインプロムナードに位置します。

正門から緩やかな坂道の両側には、春日井市の制定した市の木でもあるケヤキ並木が続いて、上り坂の左手に緑に覆われた創立者胸像の庭、右手は1号館前の庭園です。

上りきったところに時計塔があり、右手に1号館、左手には緑の芝生が広がり、現代教育学部のある70号館まで200メートルにわたるグリーンゾーンがあり、ここも両側にはケヤキ並木が続いています。

芝生の中ほどにはロタンダと呼ばれる白いドーム型の建造物がありますが、これは今から23年前、姉妹校オハイオ大学から、中部大学開学30周年と姉妹校提携20周年を祝って寄贈されたものです。雰囲気を伝えるために大学案内で見つけた、パノラマ写真をつけておきます。

メインプロムナードの正面に立つ白亜の講義棟9号館1階右側ピロティでは、テーブルを囲んで学生が談笑しています。9号館の吹き抜けをくぐり、キャンパスプラザを右手に、第一学生ホールを左手に見ながら客人と二人、歩を進めます。 

不言実行館の前を通り過ぎて、講義棟10号館と国際関係学部20号館をつなぐ渡り廊下をくぐると、緑がさらに増えて、池が見えてきます。メインプロムナードはここで、ゆるくカーブし、左手奥に体育館を見て、さらに生命健康科学部の建物に向かって歩くと、人文学部の前に、がらりと趣の違う茅葺(かやぶき)の小さな屋根がついた門に到着です。そこには
工法庵 洞雲亭と書いた小さな石碑が立っていて、私たち二人は、頭をかがめて中に入りました。

客人はキャンパスの中に、こんなにも静寂な池と緑の豊富な空間があることにまず驚かれます。書院・洞雲亭(どううんてい)に入り、土間で靴を脱いで上がると、まず目に留まるのが机の上に置かれた芳名帳です。2年前に作家曽野綾子氏も訪れて、署名を残しています。中部大学のキャンパスを「濃尾平野の天香具山」(Voice 2015年8月号)と絶賛してくださり、「この酸素発生器の様な森で4年間を過ごせる学生たちは幸せ」と彼女が書いていたことを思い出しました。

洞雲亭の室内を進むと、奥に茶室工法庵(くほうあん)があります。千利休(せんのりきゅう)の茶室を再現したという小さな部屋は、実に不思議な、心の落ち着く哲学的な空間です。

今度は庭に出て、洞雲亭の裏手にある爛柯軒を訪れました。爛柯軒―ちょっと変わった名前は中国の故事からつけられた名前です。木こりが森の中で、仙人の子供が碁を打っているのを見ていて、すっかり夢中になり気が付いた時には、時間が経っていて、立てかけておいた斧の柯(え、柄のこと)が、爛(らん、朽ちること)となってしまっていたという中国の話。

古今集で紀友則が

「ふるさとは 見しことあらず 斧の柄の 朽ちし所ぞ 恋しかりける」

と詠んでいます。戻ってきた故郷は京で、斧の柄が朽ちるほど碁に熱中した所は九州の筑紫です。筑紫に行って、帰ってきたときには、ほんの少し離れていた京が、すっかり変わってしまっていた、というのです。

阪神大震災の1995年に作られたこの茶席は開放的な雰囲気をもつもので、なかには中部大学の基本理念「不言実行」の文字があります。当時の大学新聞「中部大学通信」に載った記事と、最近の私がとった写真をつけておきます。爛柯軒は時のたつのも忘れるほど勉学に夢中になってもらいたい、という願いを込めて茶室につけられた名前です。

工法庵、洞雲亭、爛柯軒を見て、私は客人と1号館に戻ることになりました。


〔参考〕工法庵・洞雲亭について

工法庵は建築学科伊藤平左エ門教授が学生参加の研究制作活動として、提案してできたものです。江戸時代の大工技術書「数寄屋工法集」の「利休囲」に記された寸法に基づき、草庵茶室を完成させたものであり、考証復原研究の成果であったといえます。1987年に中部大学の特定研究と指定され、この取り組みは1990年に完了。その年はちょうど千利休の400回忌に当たっていました。

洞雲亭は小豆島で真言宗洞雲山観音寺の庫裏として1812年に建てられたもので、中部大学が伊藤教授を通じて寄贈されたものです。移築場所の選定に当たっては、20号館裏の池の北側にあった南下がりの空き地が選ばれ、そこにある桜の大樹は今も春になると満開となります。移築作業の取り組みは1986年1月から始まり、工学部建築学科の教授陣と学生によるところが大きく、移築修復をして、1991年に書院として完成したものということです。

洞雲亭の修理にあたって、蟻害と腐朽がひどいところには、新材の混用を避け、ちょうど靖国神社本殿解体修理で出ていた、約百年経過の解体廃材を譲り受けて充当したということです。書院完成後の庭園デザインは本学の非常勤講師である造園家の協力を得て完成したということです。池の中央には瞑想を誘う噴水が静なる日本庭園に「動き」を添えています。〔出典:中部大学通信「洞雲亭縁起」(1991年発行)〕

200メートルにわたって広がるグリーンゾーン。両側はケヤキ並木。芝生の中ほどにはロタンダと呼ばれる白いドーム型の建造物。
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噴水の背後に瓦屋根が見える春の洞雲亭(大学案内より)。右の写真は春、筆者撮影。
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古建築の書院・洞雲亭。小豆島の洞雲山観音寺の庫裏(1812年建立)を移築修復したもの。
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茶室「工法庵」は、江戸時代の大工技術書「数寄屋工法集」の「利休囲」に記された寸法に基づき、1990年に本学教授が復元した茶室。右に書院が続いている。
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洞雲亭修復の際の補足材を利用して作られた、もうひとつの茶室・爛柯軒。
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1996年2月中部大学通信に掲載された爛柯軒。
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11. 風 テキサスを思う

朝日新聞のコラム「風」にアメリカ総局長の記事が掲載されました。彼は4年の任期を終えてプリンストンを後にするところでこの記事を書き、その中で、1960年代に書かれた江藤淳の「アメリカと私」(文春文庫)の一節を紹介しています。「外国暮しの『安全圏』も1年までだね。1年だとすぐもとの生活に戻れるが、2年いると自分の中のなにかが確実に変ってしまう」―日本から米国に帰国したばかりの米国人の友人が、江藤氏に漏らした言葉というのです。

2年の米国暮らしの後、江藤氏は自分の内面が変わったと感じています。そして、アメリカ総局長である山脇岳志氏は7年半の米国生活を経験して、『安全圏』が1年なら、相当な『危険域』なのだろうかと顧みることになります。米国にも日本に対しても、共感と違和感が入り交じってしまう、と感じているのです。

これを読んで、自分のことを振り返ってみました。1970年代に留学生として渡米、その後カナダの大学に職を得て、さらにアメリカの大学に移り、帰国するまで、アメリカ大陸には25年住んでいたことになります。1年が『安全圏』というなら、この年月は『危険域』どころではないのだろうか。いやあるいは、そういう言葉で区別するものを超えたものであるのかもしれません。

帰国してから、最初の数年は頻繁に米国に戻っていました。IEEEという学会の運営に関わっていたからです。大きな手提げかばん一つを持って、往復を繰り返しました。帽子と手提げかばん一つの姿で旅をするのは、「男はつらいよ」の寅さんのようだと、言われたことがあります。自由に生きる寅さんが好きだったのでうれしく思ったものです。ある時、成田空港で日本人の列に交じって搭乗を待っているとき、空港職員が一人一人の乗客に順番に声をかけて何かを聞いていました。それが私のところに来ると、いきなり英語で話しかけてきたことがあるのでびっくり、後から思うと、顔つきや振る舞いまで、列の中にいる日本人とは別の雰囲気を醸し出していたのかもしれません。

それからしばらくして、私は日本の大学運営や学会活動に、より関わるようになり、アメリカに戻る回数も少なくなっていきました。今では、顔つきや振る舞いも、アメリカ時代にはやし始めたひげ面をのぞいては、かなり普通の日本人になったようです。江藤氏の時代でも、アメリカは移民を受け入れるのに対して、日本は外国人をずっと別扱いする国であり、半世紀後の今も、日本では、移民も難民も少数しか受け入れていない、と山脇氏は指摘しています。確かに、日本では昨年の難民認定の申請は1万人を超えましたが、政府が認めたのは、28人ということです。アメリカ・カナダでは難民認定率が60%以上という。一方で、外国に出る日本人の数は圧倒的に増え(1964年13万人、2016年には1700万人)、外国から日本を訪れる外国人の数も圧倒的に増えています(1964年35万人、2016年2400万人:日本政府観光局訪日外客数、出国日本人数の推移より)。在留外国人は1965年の時点では約60万人だったのが、2016年末で238万人(永住者は73万人)と過去最高ということです。日本の社会が多様な人々からなる社会へと徐々に移っていることも事実です。

同じアメリカ大陸でもカナダとアメリカでは、考え方が違っていました。アメリカは一度でも足を踏み入れた者をアメリカ人としてしまうのに対して、カナダでは移民のふるさとを大事にして育てていくように思えます。アメリカのことを人種のるつぼと言い、カナダのことを人種のモザイクと表現されることがありますが、その通りだと思います。特に、1985年以降、私が住んでいたテキサスでは、50州あるうちで唯一独立国家としての歴史を持ち、州旗として孤高の星 (Lone Star)を掲げ、自分たちがアメリカを支えていると思っているようでした。すべての人が、「liberty and justice for all」(すべての人のために自由と正義を)で終わるPledge of Allegiance(忠誠の誓い)を尊重していて、新大陸で自由な理想の国を目指して築きあげた、自分たちが世界一であると言う感覚が大きかったように思えます。私が接したテキサスの人は、すべての思考が前向きで明るく、私が学問を進めていくにしても、我々が子供を育てていくにも、それは心地いい環境でした。ファーストネームで呼び合って、職場としての大学でも、地域でも、仲間意識と助け合いの精神があり、個と個のつながりを感じるものでした。

最近のトランプ大統領に関する世論の動きとニュースを見ていて、私が米国に留学したころのことを思い出しました。アメリカでは、ウォーターゲート事件が問題になっており、渡米後1ヶ月の時に、ニクソン大統領の辞任演説をテレビで見ました。それから2年後、今度はロッキード事件で田中角栄首相が逮捕されたことがアメリカでも報道されました。そのとき、アメリカ人の友人が言った言葉は印象的です。「アメリカでは大統領を逮捕できなかったのに、日本では首相の逮捕まで行った。日本の民主主義はアメリカを追い越した。」

日米はじめ、世界中で必ずしも民主主義は成熟してきているとは言えないようです。ゆり戻しが進行しているのかもしれません。さらに、グローバル化が経済と結びついて推進されるとき、世界中で格差はより広がって、いろいろな形で、世界の不安定を引き起こしているように思えます。

いろいろな変革が求められているときには、人生のある期間を外国で過ごした者にも活躍できる場があるのかもしれません。これまでの制度に行き詰まりを感じ、新しい息吹を取り入れようとするとき、これまでの認識を見直して相対的に考え、国境という心の壁を乗り越えて、別の見方をすることが出来るかもしれません。

そう考えながら、日本の教育に、中部大学から新たな風を吹かせることができればと思っています。

全米2位の面積を持つTTU(テキサステック)構内にて、学生とともに1987年撮影。
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正門は大きな石が目印で、門はなく、手前の道を隔ててダウンタウンが広がる。
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TTUの建物はスペインルネッサンス風で統一されている。
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学会では、背が高い僕の学生Eddie(写真右)と、どちらが学生かとまちがわれたものです(1986年)。
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10. 石狩超電導国際フォーラム

中部国際空港セントレアから北海道の新千歳空港へ。さらに車で石狩市に移動して、国際フォーラムに参加。中部大学が石狩平野の広大な土地を使って行った実験で良い成果を出したので、それを記念する意味でも開催された国際会議です。実験は「高温超電導直流送電システムの実証研究」という長い名前の実験ですが、使われる超電導ケーブルを通している管の長さも1キロメートルというなが~いものです。実験棟から出て、地上でまっすぐに伸びたパイプの先端は定かにはわからないほど(写真を見てください)。山口作太郎教授(超伝導・持続可能エネルギー研究センター長)率いるチームの実験については昨年の科学雑誌Natureでも紹介されていました。

1日目は石狩市の大ホールで一般の市民も参加できる同時通訳付きの会議で、2日目は研究者中心の専門家会議。1日目は市民参加ということで会場は400人満員。田岡克介石狩市長、高橋はるみ北海道知事、飯吉厚夫理事長・総長の挨拶で始まり、増田寛也元総務大臣も挨拶。会議の中心は日本・中国・韓国・ロシア・スウェーデンの科学者によるエネルギー輸送の議論。地球規模での国境を越えた持続可能な未来のエネルギー戦略が語られました。夜の懇親会は場所をホテルに移し、さらに多くの人が集まりました。国会議員の方々をはじめ、実験施設にかかわる多くの企業の方や、外国からの出席者、中部大学同窓会北海道支部の方々にも出席いただき大変盛況でした。

僕の役割は2日目研究会の冒頭のあいさつ。研究会では中部大学の石狩プロジェクトの実験結果の紹介と、各国の電力事情と将来の見通しが議論されました。午後はテレビでおなじみの本学客員教授涌井史郎先生による第4次産業革命の話を聞く。これからは経済中心の利益結合型社会ではなく、自然と人間の共生の地縁結合型社会の実現が大事との話でした。

夜は石狩市長主催のおもてなしバーベキューパーティ。石狩の伝統、石狩鮭を塩漬けにし、寒干しして作る寒塩引(かんしおびき)と、北海道のお酒がふるまわれて、パーティでは日本語、英語、ロシア語、中国語が入り混じる。田岡市長と飲みながらゆっくり話をする機会を得ました。

驚いたことに、明治のころ、春日井から石狩に移住者が多くあったという。これは1891年の濃尾大地震で被害を受けた愛知県春日井郡(現在の春日井市を含んだ広域にまたがった)住民の北海道移住ということである。現在535万人の北海道は他府県を上回る速さで人口減少が進んでおり、現在人口5万8千人の石狩市でも人口の減少と、少子化が問題とのこと。田岡市長は市長職に18年就いているが、次のなり手がいないので困っているとのこと。北海道庁のある札幌まで30分の距離で、学生や勤め人は石狩から札幌に出るということ。ところが札幌の男性は職を求めて関東に移住するという。その結果、人口196万の札幌では女性105万人、男性91万人で、女性対男性の比は100対88(全国では100対95)。確かに女性人口のほうが多い。

途中で寒くなってきて、屋外から室内へ移動し話が続いた。パーティが盛り上がったところで、締めのあいさつで、田岡市長にバーベキューパーティのお礼、料理を準備してくださった市役所の皆さん、市民の皆さんに感謝、そして研究会参加者には英語で、研究会が成功のうちに終わったことへの感謝を述べて散会となりました。

北海道石狩湾のそばに設置された高温超電導直流送電システムの実証研究のためのパイプライン
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9. スポーツ大会

午前中の会議は、他の会議同様ペーパーレスで、スクリーンを使っての進行。前もって資料は委員の皆さんに配布してあるので、委員会では実質的な議論に時間を使うことが出来る。会議時間は大幅に短縮。午後からの全学学科対抗スポーツ大会が待っている。

強い日差しが照る中をキャンパスの西端に位置するグラウンドに行くと、メイングラウンドには大勢の学生が詰めかけていた。晴天のスポーツ大会がうれしい。西側に設けられたテント。テントに隣接するところでは放送研究会を中心とする学生・教職員がテレビ中継に備えている。

競技参加登録の学生は約2000人。それぞれの学科ごとのおそろいのTシャツでカラフル。進行をいろいろな面でサポートするクラブ機動チーム330人はおそろいのブルーのポロシャツ。私も教員も今日はブルー。運営委員が学生30人で、競技委員が学生104人、チアリーダーが14人、シンフォニックバンドが60人。それにグラウンドで応援したり、参加する教員約200人。

第15回ともなると、進行はスムーズで、私があいさつしたあと、ピストルの合図とともにリレーが始まった。何しろ26学科の対抗ともなると、予選の組み合わせが多い。長縄跳び、綱引き、アジャタ競技と呼ばれる玉入れ、大きなグラウンドが所狭しと使われる。私はテントの中で、グラウンドを見ながら、そして私の前に置かれたテレビで、放送研究会の学生が実況中継している様子も見る。グラウンドでは競技の後、放送研究会の学生が参加者にインタビューする様子も映し出される。予選が終わり、シンフォニックバンドによる演奏、チアリーダーによるパフォーマンスが盛り上げる。そのあと決勝戦。夕暮れ前に閉会式。3000人の笑顔がはじけた、中部大学ファミリーの一体感を感じたスポーツ大会だった。

大会会長挨拶と生命健康科学部スポーツ保健医療学科代表選手宣誓。
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救急救命士の訓練を受けた学生たちが待機する。
3回の出動があったものの、大事には至らなかった。
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長縄跳びはチームワークの発揮するところ。最高は107回連続を記録した。
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Tug of War sportは力が入る。 みんなの力が合わさったところが大きな引く力を生む。
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チアリーダーの躍動と、心地よく、力強いシンフォニックバンドの演奏。
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夕暮れが近づく時、優勝杯は再び勝利を収めたスポーツ保健医療学科の手に渡された。
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