学長ブログ

11. 風 テキサスを思う

朝日新聞のコラム「風」にアメリカ総局長の記事が掲載されました。彼は4年の任期を終えてプリンストンを後にするところでこの記事を書き、その中で、1960年代に書かれた江藤淳の「アメリカと私」(文春文庫)の一節を紹介しています。「外国暮しの『安全圏』も1年までだね。1年だとすぐもとの生活に戻れるが、2年いると自分の中のなにかが確実に変ってしまう」―日本から米国に帰国したばかりの米国人の友人が、江藤氏に漏らした言葉というのです。

2年の米国暮らしの後、江藤氏は自分の内面が変わったと感じています。そして、アメリカ総局長である山脇岳志氏は7年半の米国生活を経験して、『安全圏』が1年なら、相当な『危険域』なのだろうかと顧みることになります。米国にも日本に対しても、共感と違和感が入り交じってしまう、と感じているのです。

これを読んで、自分のことを振り返ってみました。1970年代に留学生として渡米、その後カナダの大学に職を得て、さらにアメリカの大学に移り、帰国するまで、アメリカ大陸には25年住んでいたことになります。1年が『安全圏』というなら、この年月は『危険域』どころではないのだろうか。いやあるいは、そういう言葉で区別するものを超えたものであるのかもしれません。

帰国してから、最初の数年は頻繁に米国に戻っていました。IEEEという学会の運営に関わっていたからです。大きな手提げかばん一つを持って、往復を繰り返しました。帽子と手提げかばん一つの姿で旅をするのは、「男はつらいよ」の寅さんのようだと、言われたことがあります。自由に生きる寅さんが好きだったのでうれしく思ったものです。ある時、成田空港で日本人の列に交じって搭乗を待っているとき、空港職員が一人一人の乗客に順番に声をかけて何かを聞いていました。それが私のところに来ると、いきなり英語で話しかけてきたことがあるのでびっくり、後から思うと、顔つきや振る舞いまで、列の中にいる日本人とは別の雰囲気を醸し出していたのかもしれません。

それからしばらくして、私は日本の大学運営や学会活動に、より関わるようになり、アメリカに戻る回数も少なくなっていきました。今では、顔つきや振る舞いも、アメリカ時代にはやし始めたひげ面をのぞいては、かなり普通の日本人になったようです。江藤氏の時代でも、アメリカは移民を受け入れるのに対して、日本は外国人をずっと別扱いする国であり、半世紀後の今も、日本では、移民も難民も少数しか受け入れていない、と山脇氏は指摘しています。確かに、日本では昨年の難民認定の申請は1万人を超えましたが、政府が認めたのは、28人ということです。アメリカ・カナダでは難民認定率が60%以上という。一方で、外国に出る日本人の数は圧倒的に増え(1964年13万人、2016年には1700万人)、外国から日本を訪れる外国人の数も圧倒的に増えています(1964年35万人、2016年2400万人:日本政府観光局訪日外客数、出国日本人数の推移より)。在留外国人は1965年の時点では約60万人だったのが、2016年末で238万人(永住者は73万人)と過去最高ということです。日本の社会が多様な人々からなる社会へと徐々に移っていることも事実です。

同じアメリカ大陸でもカナダとアメリカでは、考え方が違っていました。アメリカは一度でも足を踏み入れた者をアメリカ人としてしまうのに対して、カナダでは移民のふるさとを大事にして育てていくように思えます。アメリカのことを人種のるつぼと言い、カナダのことを人種のモザイクと表現されることがありますが、その通りだと思います。特に、1985年以降、私が住んでいたテキサスでは、50州あるうちで唯一独立国家としての歴史を持ち、州旗として孤高の星 (Lone Star)を掲げ、自分たちがアメリカを支えていると思っているようでした。すべての人が、「liberty and justice for all」(すべての人のために自由と正義を)で終わるPledge of Allegiance(忠誠の誓い)を尊重していて、新大陸で自由な理想の国を目指して築きあげた、自分たちが世界一であると言う感覚が大きかったように思えます。私が接したテキサスの人は、すべての思考が前向きで明るく、私が学問を進めていくにしても、我々が子供を育てていくにも、それは心地いい環境でした。ファーストネームで呼び合って、職場としての大学でも、地域でも、仲間意識と助け合いの精神があり、個と個のつながりを感じるものでした。

最近のトランプ大統領に関する世論の動きとニュースを見ていて、私が米国に留学したころのことを思い出しました。アメリカでは、ウォーターゲート事件が問題になっており、渡米後1ヶ月の時に、ニクソン大統領の辞任演説をテレビで見ました。それから2年後、今度はロッキード事件で田中角栄首相が逮捕されたことがアメリカでも報道されました。そのとき、アメリカ人の友人が言った言葉は印象的です。「アメリカでは大統領を逮捕できなかったのに、日本では首相の逮捕まで行った。日本の民主主義はアメリカを追い越した。」

日米はじめ、世界中で必ずしも民主主義は成熟してきているとは言えないようです。ゆり戻しが進行しているのかもしれません。さらに、グローバル化が経済と結びついて推進されるとき、世界中で格差はより広がって、いろいろな形で、世界の不安定を引き起こしているように思えます。

いろいろな変革が求められているときには、人生のある期間を外国で過ごした者にも活躍できる場があるのかもしれません。これまでの制度に行き詰まりを感じ、新しい息吹を取り入れようとするとき、これまでの認識を見直して相対的に考え、国境という心の壁を乗り越えて、別の見方をすることが出来るかもしれません。

そう考えながら、日本の教育に、中部大学から新たな風を吹かせることができればと思っています。

全米2位の面積を持つTTU(テキサステック)構内にて、学生とともに1987年撮影。
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正門は大きな石が目印で、門はなく、手前の道を隔ててダウンタウンが広がる。
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TTUの建物はスペインルネッサンス風で統一されている。
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学会では、背が高い僕の学生Eddie(写真右)と、どちらが学生かとまちがわれたものです(1986年)。
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10. 石狩超電導国際フォーラム

中部国際空港セントレアから北海道の新千歳空港へ。さらに車で石狩市に移動して、国際フォーラムに参加。中部大学が石狩平野の広大な土地を使って行った実験で良い成果を出したので、それを記念する意味でも開催された国際会議です。実験は「高温超電導直流送電システムの実証研究」という長い名前の実験ですが、使われる超電導ケーブルを通している管の長さも1キロメートルというなが~いものです。実験棟から出て、地上でまっすぐに伸びたパイプの先端は定かにはわからないほど(写真を見てください)。山口作太郎教授(超伝導・持続可能エネルギー研究センター長)率いるチームの実験については昨年の科学雑誌Natureでも紹介されていました。

1日目は石狩市の大ホールで一般の市民も参加できる同時通訳付きの会議で、2日目は研究者中心の専門家会議。1日目は市民参加ということで会場は400人満員。田岡克介石狩市長、高橋はるみ北海道知事、飯吉厚夫理事長・総長の挨拶で始まり、増田寛也元総務大臣も挨拶。会議の中心は日本・中国・韓国・ロシア・スウェーデンの科学者によるエネルギー輸送の議論。地球規模での国境を越えた持続可能な未来のエネルギー戦略が語られました。夜の懇親会は場所をホテルに移し、さらに多くの人が集まりました。国会議員の方々をはじめ、実験施設にかかわる多くの企業の方や、外国からの出席者、中部大学同窓会北海道支部の方々にも出席いただき大変盛況でした。

僕の役割は2日目研究会の冒頭のあいさつ。研究会では中部大学の石狩プロジェクトの実験結果の紹介と、各国の電力事情と将来の見通しが議論されました。午後はテレビでおなじみの本学客員教授涌井史郎先生による第4次産業革命の話を聞く。これからは経済中心の利益結合型社会ではなく、自然と人間の共生の地縁結合型社会の実現が大事との話でした。

夜は石狩市長主催のおもてなしバーベキューパーティ。石狩の伝統、石狩鮭を塩漬けにし、寒干しして作る寒塩引(かんしおびき)と、北海道のお酒がふるまわれて、パーティでは日本語、英語、ロシア語、中国語が入り混じる。田岡市長と飲みながらゆっくり話をする機会を得ました。

驚いたことに、明治のころ、春日井から石狩に移住者が多くあったという。これは1891年の濃尾大地震で被害を受けた愛知県春日井郡(現在の春日井市を含んだ広域にまたがった)住民の北海道移住ということである。現在535万人の北海道は他府県を上回る速さで人口減少が進んでおり、現在人口5万8千人の石狩市でも人口の減少と、少子化が問題とのこと。田岡市長は市長職に18年就いているが、次のなり手がいないので困っているとのこと。北海道庁のある札幌まで30分の距離で、学生や勤め人は石狩から札幌に出るということ。ところが札幌の男性は職を求めて関東に移住するという。その結果、人口196万の札幌では女性105万人、男性91万人で、女性対男性の比は100対88(全国では100対95)。確かに女性人口のほうが多い。

途中で寒くなってきて、屋外から室内へ移動し話が続いた。パーティが盛り上がったところで、締めのあいさつで、田岡市長にバーベキューパーティのお礼、料理を準備してくださった市役所の皆さん、市民の皆さんに感謝、そして研究会参加者には英語で、研究会が成功のうちに終わったことへの感謝を述べて散会となりました。

北海道石狩湾のそばに設置された高温超電導直流送電システムの実証研究のためのパイプライン
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9. スポーツ大会

午前中の会議は、他の会議同様ペーパーレスで、スクリーンを使っての進行。前もって資料は委員の皆さんに配布してあるので、委員会では実質的な議論に時間を使うことが出来る。会議時間は大幅に短縮。午後からの全学学科対抗スポーツ大会が待っている。

強い日差しが照る中をキャンパスの西端に位置するグラウンドに行くと、メイングラウンドには大勢の学生が詰めかけていた。晴天のスポーツ大会がうれしい。西側に設けられたテント。テントに隣接するところでは放送研究会を中心とする学生・教職員がテレビ中継に備えている。

競技参加登録の学生は約2000人。それぞれの学科ごとのおそろいのTシャツでカラフル。進行をいろいろな面でサポートするクラブ機動チーム330人はおそろいのブルーのポロシャツ。私も教員も今日はブルー。運営委員が学生30人で、競技委員が学生104人、チアリーダーが14人、シンフォニックバンドが60人。それにグラウンドで応援したり、参加する教員約200人。

第15回ともなると、進行はスムーズで、私があいさつしたあと、ピストルの合図とともにリレーが始まった。何しろ26学科の対抗ともなると、予選の組み合わせが多い。長縄跳び、綱引き、アジャタ競技と呼ばれる玉入れ、大きなグラウンドが所狭しと使われる。私はテントの中で、グラウンドを見ながら、そして私の前に置かれたテレビで、放送研究会の学生が実況中継している様子も見る。グラウンドでは競技の後、放送研究会の学生が参加者にインタビューする様子も映し出される。予選が終わり、シンフォニックバンドによる演奏、チアリーダーによるパフォーマンスが盛り上げる。そのあと決勝戦。夕暮れ前に閉会式。3000人の笑顔がはじけた、中部大学ファミリーの一体感を感じたスポーツ大会だった。

大会会長挨拶と生命健康科学部スポーツ保健医療学科代表選手宣誓。
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救急救命士の訓練を受けた学生たちが待機する。
3回の出動があったものの、大事には至らなかった。
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長縄跳びはチームワークの発揮するところ。最高は107回連続を記録した。
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Tug of War sportは力が入る。 みんなの力が合わさったところが大きな引く力を生む。
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チアリーダーの躍動と、心地よく、力強いシンフォニックバンドの演奏。
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夕暮れが近づく時、優勝杯は再び勝利を収めたスポーツ保健医療学科の手に渡された。
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8. 墓参 ―無量寿寺

朝から小雨模様の中を、知多半島の半田市にある浄土真宗大谷派の無量寿寺(むりょうじゅじ)に到着しました。まだキャンパスからの参列者を乗せたバスが到着する前だったので、砂利とクロマツが美しい、落ち着いた広い境内をゆっくりと歩く。お寺の名前にある無量寿が、量りきれない寿命を意味するものであることを思い、創立者三浦幸平先生のお墓にお参りし、中部大学第5代学長に就任したことを報告しました。墓石には先生の筆になる「歸真」の二文字が刻まれていました。帰の旧字が使われており、「真に帰す、真に帰る」の意味を考える。真とは真理や真実のことであり、仏教では浄土に帰ることを意味するようですが、帰るべき真とは自然で飾り気のない状態なのでしょう。したがって、真に帰るとは本来の自然のままの自分に戻ることなのでしょうか。そんなことを考えているうちに墓参の人数が増えてきました。

別室に入り、古くからの中部大学関係者と共にお茶をいただきました。

大学よりバスが到着して、大勢の参列者のお墓参りがすんだ後、本堂で法要が始まりました。住職の読経とともに、飯吉厚夫理事長・総長と私の焼香に続いて新旧教職員の焼香が続きました。学校法人中部大学は学園として4つの学校からなり、中部大学のほかに中部大学第一高等学校、中部大学春日丘中学校・高等学校があり、新旧学校長の姿も見えました。焼香が終わり、読経が終わると、飯吉厚夫理事長・総長のあいさつ。この1年間で亡くなられた学園関係者11人の名前が紹介されて、厳かな法要が終わりとなりました。

参列者は庫裏に移動し、お菓子とお茶をいただくことになります。広い庫裏には座卓と座布団が所狭しと並べられています。そこで、大学関係者を代表して私から、参列者の皆様に、42年目の学園創立者記念日の墓参のお礼を述べて、中部大学の近況報告を行いました。大学は7万6千人を超す卒業生を出し、今や7学部6研究科を擁し、在籍者数1万1千人を超す大規模大学となったこと。先日在学生の保護者と教職員が集まる「父母との集い」を、創立者生誕100年を記念して25年前に作られた三浦幸平メモリアルホールで行ったこと。その「父母との集い」は三浦幸平先生の時に始められて、今に続いており、他の行事とともに中部大学の伝統として受け継がれていることを報告しました。

そして、我々中部大学に籍を置く学生・教員・職員すべてが、創立者の残された言葉「不言実行」の言葉を胸に毎日が学びの中にあること。「無学」という言葉は一般的には学問の知識のないことをいうわけですが、これ以上学ぶことがないという意味でも使われ、これ以上学ぶことがない悟りの境地という意味で、学生ともども無学の境地に向かって、怠ることなく進んでいることを話して、参列者の皆様に対して、墓参のお礼を述べてあいさつを終えました。

無量寿寺(愛知県半田市)
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創立者三浦幸平先生の墓石には「歸真」の文字
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7. 神宮球場 ―全日本大学野球選手権

1対1で延長戦。緊張が続く。隣で観戦していた硬式野球部顧問の松尾直規教授の解説が入る。延長10回以上はタイブレーク(tie break)で、1死・走者満塁の設定で始まるという。テニスで行われる試合時間短縮のためのルールが、野球にも取り入れられていたことを知る。10回は両者無得点。11回表、中部大学の攻撃2死のあと、打者は2年生下村崇将君。後ろの観客席にいた中部大学理事から、今季愛知リーグの首位打者という解説が入る。緊張は極度に達する中、打った。気が付いた時には痛烈な打球は2塁手の横を通り抜けて右中間深く外野手のほうへ。速い速い、満塁の走者が駆け抜ける。3人の走者がホームを踏み3塁打となった。三塁側スタンドで観戦していた13人のチアリーダーが跳びはね、大きなメガホンを持ったブルーのTシャツを着た応援団71人が歓声を上げ、10人のシンフォニックバンドが喜びの大音響。春日井市から駆け付けた教員、職員、学生、同窓生、企業の人たち、伊藤太春日井市長も、飯吉厚夫理事長・総長も、私も、総勢350名の春日井応援団は歓喜に沸いた。そばにいたチアリーダーと握手握手、みんなも握手。試合は11回裏を抑えて、中部大学は近畿大学工学部を破り、全日本大学野球選手権の初戦の勝利を神宮球場で飾ることになった。こんなにも大勢がはるばる春日井市から応援にやってきた。

一方、春日井市にある中部大学のキャンパスでは、不言実行館ACTIVE PLAZAにて開かれたパブリックビューイングで、300人以上が応援にかけつけて、大いに盛り上がったという知らせが入ってきた。帰りの新幹線の中で、東京駅で買い込んだ遅い昼食を妻と並んで食べながら、勝利の余韻に浸っていた。

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6. ナイトウォーク ―真夜中の42キロ

春日井の丘に登れば独特の風が吹いています。独特の空気、雰囲気があります。大学全体にみなぎる気風があります。今日はその風が生まれる背景を見たような一日でした。

さわやかな晴天の土曜日、朝一番で、三浦幸平メモリアルホールに集まった約300人の工学部・経営情報学部・国際関係学部3年生の保護者に、最近のキャンパスの様子をお話ししました。「父母との集い」は開学3年目にして生まれた後援会が主催するもので、50年近く続いています。保護者と教員・職員が一体となって学生を育てていこうという試み。午後には、同じ場所で4年生の保護者に集まっていただいて話をする機会を持ちました。

その後、私は不言実行館ACTIVE PLAZAに移動して、新入生に対して、中部大学の歴史について、教育について話をし、懇談をしました。

それが終わったところで、ニュースが飛びこんできました。豊田市の野球場で行われていた硬式野球部の愛知大学野球春季リーグ戦の試合結果です。9回逆転3ランで名城大学に勝利。その結果、9年ぶりに全日本大学野球選手権大会出場決定という快挙。

そして、太陽が傾くころ、野外ステージ前の芝生には学生が集まりだしていました。今年で23回目のナイトウォーク、真夜中の挑戦です。80人の挑戦者。春日井キャンパスから42キロ先の恵那キャンパスまで、学生クラブ運営委員会が周到な準備の下で企画し、見守り送り出すのです。学生支援課の職員を含め58人がサポートにまわります。私は「千里の道も一歩から」を引き合いに出して、蛍光色のゼッケンをつけた80人とそれを取り巻く大勢の人たちに向かって話し出しました。1里は人間が1時間で歩く距離を基準に決められており約4キロであること、恵那キャンパスまでの10里の道のりを、江戸時代に使われた庶民の街道「下街道(したかいどう)」に沿うようにして山道も含めて、「五里霧中」という言葉も引き合いに出して、約12時間かけて無事に歩き通し、恵那キャンパスでの朝食にみんなが元気で集まれるようにと激励。私の話のあと、工学部3年生の運営委員長のあいさつ、チアリーダー部による応援演技、シンフォニックバンドの元気の出る演奏。そしてクラブ運営委員会からの諸注意確認の後、午後7時、80人それぞれが同窓会から支給された懐中電灯を片手に、出発ゲートをくぐり、チアリーダーや大勢の仲間が見守る中を出発。

出発式が終わり、夕暮れのキャンパスを、出発式を見に来た妻と共に歩いていました。今日一連の出来事を振り返り、一つ一つが、中部大学ファミリーの中で起こっていることで、その一つ一つの積み重ねが、春日井の丘の空気を、風を、雰囲気を作り出していることを思って、うれしくなったのです。ちょっと涼しくなってきて、学生たちが内々(うつつ)神社を通るころは寒いんじゃないかな、と心配しながら、暗い夜道を歩くみんなの無事を祈っていました。

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5. 中部大学に天文台ができた

中部大学天文台天体観測所が、春日井キャンパスの北西の一角に完成し、5月10日に多くの来賓、中部大学の教職員、学生、中部大学第一高等学校、中部大学春日丘高等学校、中部大学春日丘中学校の生徒を招いて開所式が行われました。土井隆雄宇宙飛行士にもお越しいただきましたので、生徒は大喜びでした。土井先生は中部大学創発学術院の客員教授でもあります。テープカットには国立天文台台長の林正彦先生、春日井市の伊藤太市長、飯吉厚夫理事長、松尾直規中部大学天文台台長にも参加いただきました。写真の後ろに見える直径4mのドームに、口径30cmの反射望遠鏡と口径15cmの屈折望遠鏡を配備し、さらに館内には3Dプラネタリウムを備えています。

開所式の後、場所を移して、不言実行館アクティブホールで記念講演会が開催されました。国立天文台台長林正彦先生の話は、古代から現代にいたる宇宙観の変遷と、多くの天体写真を交えて星、星団、宇宙の話、宇宙は「平ら」で、ダークエネルギーが70%を占めるという現在の宇宙観が紹介されました。土井先生の話は、1985年の毛利衛さん、向井千秋さんとともに宇宙飛行士として選抜された時から、1997年STS(Space Transportation System)-87と呼ばれる87番目のスペースシャトル「コロンビア」でのミッションにおける日本人初の船外活動の話、2008年のSTS-123でスペースシャトル「エンデバー」を使って、国際宇宙ステーションに日本の実験棟きぼうを設置したことなど、わくわくする話が映像を見ながら語られました。スペースシャトルは400km上空を、1時間半で地球を一周するため、45分ごとに昼と夜がやってくるという話を聞いて、私自身カナダにいる時に、夜空を見上げて星のように光るスペースシャトルが動いていくのを見つけて、感動したことを思い出していました。数分間明るく光って動いていくのが見えたのです。そのことを思い出して、ここで計算してみると、スペースシャトルの速度νは、スペースシャトルの円軌道の半径をR、周回にかかる時間をTとすると

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で与えられて、スペースシャトルが半径6400kmの地球の上空400kmのところを回っているので、R =6400+400=6800km、1時間半(90分)で回るのでT =90×60=5400秒 をいれると、

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となり、秒速7.9km、時速にすると2万8千キロ。確かに天空をはやい速度で動いていくものですね。

私自身はプラズマ物理を専門としていて、プラズマや宇宙のことについてもいずれ、このブログの中で書こうと考えています。

中部大学天文台天体観測所開所式でのテープカット。左から石原、林正彦国立天文台台長、飯吉厚夫理事長、伊藤太春日井市長、松尾直規中部大学天文台長
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講演会で主催者挨拶。中部大学開学50周年を記念して2年前に建てられた不言実行館の中で、学園80周年の1年前に完成された天文台の開所式が無事終わり、中部大学ファミリーにわくわくする教育研究施設がまた増えた、とあいさつ。
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「宇宙をめざせ」不言実行館アクティブホールとサテライト会場の聴衆に土井隆雄宇宙飛行士が呼びかけた。
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4. 全国制覇したハンドボール部

東海学生ハンドボール春季リーグ第3戦が行われたその午後に、ハンドボール部創部50周年の祝賀会が名古屋市内のホテルで催されました。中部大学ハンドボール部OB会主催で、現役部員53名を含む109人が出席。37年連続全日本学生選手権大会出場、そして2014年の全国制覇を成し遂げた輝かしい実績を誇るハンドボール部の祝賀会は、歴史を振り返り、未来を見据える思い出に残る会になりました。そこで私が出会ったのは国際関係学部卒業のOB会長、工学部卒業のOB会副会長、現在春日井市に店を構えるハンドボール部後援会長、創部時の部員で現在70歳になるOB、四国から駆けつけたOB、顧問や監督そして現役の学生部員。それぞれの話は、今につながる大学の歴史そのものを物語るようにも思えました。厳しさの中にあるあったかい人間のつながり。そして『世界のGAMO』といわれた前監督・現日本ハンドボール協会副会長蒲生晴明教授(写真で、前から2列目中央あたり、僕の右手側)が、ずらりと整列した53人の現役部員に向けて語った「競技成績は努力の結果であるが、もっと大事なことは人間としての成長と人間力を身に付けること」と語られた言葉は、若い学生の心に響いた気がしました。中部大学には全国から学生が集まっています。ハンドボール部の部員も全国から集まり、監督が学生一人一人と向き合っていて、仲間がつながっていることを感じます。

あったかい気持ちを抱いて、名古屋のパノラマビューがすばらしい28階の会場を後にしました。

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3. 恵那キャンパス訪問

通常業務が始まり、学長室に人の出入りが激しくなった2週目。そんな合間を縫って、今週は中央本線で春日井キャンパスのある神領駅から40分の武並駅近くにある、中部大学の研修センターを訪れました。この恵那キャンパスは、濃尾平野の北東部、岐阜県の東南に位置する東濃地域に位置し、木曽路の入口であり、標高2,190メートルの恵那山が目の前に迫っています。34万平方メートルもある広大な自然空間は、イノシシ、マムシ、野兎など野生動物もいるとのこと。中部大学春日丘中高を含めた春日井キャンパスが37万平方メートルあるので、それに匹敵する広大さを持っています。

4月から5月にかけて、2,641人の新入生が新入生恵那研修に参加します。もう40年も続いている中部大学新入生の伝統行事です。230人を収容できる宿泊棟、5つの研修室、体育館と屋外の体育施設を持っていて、私が到着した時には、キャンパスは満開の桜で、研修室では経営情報学部経営総合学科の1年生が5~6人一組の班に分かれて、スクリーンを使ってプレゼンをやっている最中でした。ピアサポーターと呼ばれる黄色のベストを着た上級生が司会と進行役で、はにかみがちな新入生をうまくリードして発表の雰囲気を和やかなものにしていました。発表内容は前日に班ごとに取り組んだシミュレーションゲームの結果報告で、経済に関する世界情勢も含まれており、勉強しながら仲間ができている様子がうかがえました。後ろで見ていた引率教員によれば、ピアサポーターのリードがオリエンテーションのかなめ(要)になっているという。発表後の昼食会で、新入生と一緒にカレーを食べながら、ピアサポーターの一人は、自分が一年生の時の経験から、今度は後輩のためになりたいと、自ら志願して参加したとのこと。昼食がすめば今度は体育館に移動して、ドッジボール。ワイワイ言いながら新入生同士の絆が深まる様子でした。

研修センターは5月末に行われる中部大学恒例の、ナイトウオークの到着地点にもなっています。約100人の教職員と学生が春日井キャンパスを夜出発し、45キロ先の恵那キャンパスには早朝に到着というものです。

帰途、武並駅から恵那キャンパスを振り返りました。ふと作家の曽野綾子氏が春日井のキャンパスを訪れた際、濃尾平野の天香具山と表現してくださったことを思い出しました:

「酸素発生器の様な森で4年間を過ごせる学生たちは幸せだと感じずにはいられなかった。東京にはろくろくスポーツをする場所もないようなキャンパスしか持たない大学も多い。この恵まれ方は何という違いかと思う。(中略)大学の岡を降りるとき、振り返るとまっ平らな濃尾平野の中に突然浮かび上がった緑の岡はなぜか『天香具山』のように見えた。」(曽野綾子、Voice, 2015年9月, p.236)

作家曽野綾子の目で見れば、春日井キャンパスにもまして豊かな、この自然環境の中にある恵那キャンパスを、何と表現するだろうか、と思いながら、近くを通る中山道の案内図を横目に、恵那キャンパスを後にしました。

中部大学研修センター全景(左に白く小さく写っているのが研修棟と宿泊棟、手前にラグビー・サッカー・陸上グランド、野球場、テニスコート)20170415-02.jpg

中部大学研修センター入口
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体育館
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食堂〈写真の真ん中に小さく僕が写っています〉
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2. 学長最初の一週間

4月1日の大学と大学院の入学式に続いて、今週は併設校の中部大学春日丘高校(512人入学)、中部大学第一高校(420人入学)そして、中部大学春日丘中学校(103人入学)の入学式に出席しました。入学式では、緊張の面持ちの生徒と、誇らしげに喜びに満ちた保護者の姿が印象的でした。壇上から見ていて気が付いたことは、保護者の数です。大学院、大学、高校、中学と保護者の人数が増えていき、中学校の入学式では両親ともに出席している場合が多いので、入学生以上の人数になっていることでした。

先月まで小学生だった子供が中学に入学、正門で写真を撮る親子の姿を見ていて、当時の自分のことを思い出しました。中学受験の合格発表の日のことです。私は小学生のころ珠算塾に通っていて、ちょうど合格発表の日は、兵庫県大会の日でした。午前中神戸の三宮で競技会に出て、入賞したものの、表彰式には出ずに、一人阪急神戸線に飛び乗り、中学校まで走っていったのです。先に行っていた兄貴と親父が、あったよ、と喜んで出迎えてくれました。そのころの合格発表は中学校の校舎の中に合格者の番号が張り出されて、自分の受験番号がその中にあるか、見に行かなくてはならなかったのです。今では親父も、母もそして昨年兄も亡くなりました。そんなことを思い出しながら、これで中部大学ファミリーの新入生すべての入学に立ち会ったという喜びを感じていました。

新学期の授業が始まる前日、これまでの教員総会を改めて、初めての教職員総会を開くことになりました。それは教員と職員は大学で一体の存在であるという私の思いから実現したものです。534席収容の三浦幸平メモリアルホールと、ホール外のモニター室および不言実行館1階のアクテイブホールにも参加者を収容し、出席者は600人近くになったということです。

総会では、今後の大学の基本方針について話しました。41人の新任の先生もいることから、現状認識の共有ということで、78年4か月の学園の歴史を、1年のカレンダーにして表現してみました。1月1日(1938.12.8)に誕生した学園は、30日後(1945.3.19)には空襲により全焼し、中部工業大学として開学できたのは4月28日(1964.4.1)。戦後の混乱の中で学園の復活にはずいぶん時間がかかったわけですが、創設者三浦幸平初代学長の、中部地区に大学を作る、私学でこそ真の教育ができる、という熱意がようやく実ったのです。工学部にさらに2学部を加えて中部大学になったのは7月30日(1984.4.1)。現在の7学部の形が出来上がったのは11月18日(2008.4.1)。在籍者数が1万人を超えたのは12月8日(2012.4.1)。そして今、新たなカレンダーの1ページの始まりです。
12,738人の学生・教職員からなる中部大学の現状を「世界がもし100人の村だったら」にヒントを得て、人形を並べて100人で表現してみました。男女の人形です。学生グループ(89人)、教員グループ(8人)、職員グループ(3人)。今度は学生グループが100人の村だったら、工学部31人、経営情報学部12人、国際関係学部5人、人文学部15人、応用生物学部14人、生命健康学部14人、現代教育学部6人、大学院生は3人です。それから、私の大学に対する思いと教育に対する思いを表しました。教育の本質は学びにあること、大学の構成員はすべて学びの途上にあること、大学(University)での教育(Education)の意味、等私が日ごろ考えているところを語りました。そのほか、中部大学の研究の現状、財政の現状、入学試験の結果、大学ビジョンについて。最後は、中部大学から教育の新しい風を世界に向けてというメッセージで終わりました。

この間にいくつかの新学長インタビューを受けました。学外からは複数の新聞社(朝日、中日、中部経済、国際ジャーナルForeign Affairs)、学内からは放送研究会(5人の学生さんと顧問の先生)によるインタビュー、大学広報誌ウプト(2人の学生編集委員と学園広報制作課)によるインタビュー。新聞社のインタビューでは、学長が抱く大学や教育・研究に対する思いといったことなど、次々と質問され、次第に答えるほうも熱を帯びていきました。放送研究会のコミュニケーション学科と電子情報工学科の学生さんからは、私の研究のことを聞かれて、プラズマの話をして、ウプト取材の現代教育学科の学生さんとは、教育の話で話が盛り上がり、ロボット理工学科の学生さんからの質問のなかにあった海外おすすめの場所は、広大な空間を持つテキサス西部(15年間住んでいたところです)を含むGreat Plains、オーロラの見えるカナダ中西部のPrairie(7年間住んでいました)、そしてイタリアのアドリア海(プラズマ夏の学校の講師として何度も滞在したトリエステ)を挙げました。

そして大学案内用の写真撮影では、まだ調度品も整わない学長室でのプロによる撮影。学長の最初の1週間があわただしく過ぎていきました。写真は学長室から見える満開の桜。プロのとった写真はまだできないので、代わりにスタッフが描いた似顔絵:

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