学長ブログ

2018年4月の記事

27. ホーキング(余命2年の宣告後、活躍を続けた宇宙物理学者の死) 

車椅子の科学者として知られたスティーブン・ホーキングは、1942年1月8日に生まれ、この春 3月14日に76歳の生涯を閉じました。亡くなる直前に書き上げた論文「A Smooth Exit from Eternal Inflation?」(永遠の膨張からのスムーズな離脱?)は1ヶ月以上経った4月27日、独科学雑誌Journal of High Energy Physicsに掲載され、まさにホーキングの「最後の論文」となりました。

ホーキング誕生のちょうど400年前の1542年に、コペルニクスが「天体の回転について」を書き上げ、出版を見ることなく、死んでいったことを思い出します。それまで、地球の周りをすべての天体が回っていると考えられていたのが、彼の論文により、太陽を中心として地球を含む惑星が回っていると認められたのです。科学の革命がこうして起こり、それはガリレオに受け継がれ、1642年、ガリレオが死んだ年に生まれたニュートンへと、つながっていきます。ホーキングはガリレオが亡くなった300年後のその日に生まれたのです。歴史上の天才の連鎖を感じます。

私がまだテネシー大学の大学院生時代、1976年のこと、アメリカ物理学会に出席して帰ってこられた物理学教授シェー先生が、「ホーキングの話を聞いたけれど、声が小さくて聞き取りにくかった」と話していたことを覚えています。当時34歳のイギリス人のホーキングが、アメリカ物理学会で、一般相対性理論における重力特異点についての研究に対して、賞を与えられて講演をしたのです。

その後、2001年のオーストラリアで開催されたプラズマ物理国際会議で、私の仲間がシドニー大学の友人の家に集まりました。南アフリカから来た、プラズマ物理学者のマンフレッド・ヘルバーグが、彼の学生時代の話をしてくれました。マンフレッドが英国のケンブリッジ大学の学生だった1963年ごろのこと。カフェテリアで、一緒に並んでいたクラスメートのホーキングが、目の前で持っていたトレイを落としたというのです。おそらくそれが、彼の病の最初の兆候だったのだろうと、マンフレッドは振り返っていました。

ケンブリッジの大学院生だったホーキングは、21歳の時、運動ニューロン(神経細胞)の変性を起こす病気の一つで、全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、余命2年といわれました。一時、絶望的になり、博士号をとることすら無意味に思えた彼が、どうして学び続けることができたのか。それは、「22歳で出会ったケンブリッジ大学の女子学生に恋をして、婚約したからだ」と、ホーキングは回想しています。「結婚するために、仕事を得なければならないから、博士号をとると決心し、その時人生で一番、一生懸命勉強した」というのです。ホーキングは学生結婚をして、3人の子供がいます。

ホーキングが40歳になるころには、子どもの学費と増え続ける医療費のために、本を執筆することを考えたのです。出版社に原稿を持って相談に行くと、数式が一つ入るごとに、読者は半減すると言われ、すべての数式を排除し、見事に数式なしの(たった一つの例外はアインシュタインの20180430-01.jpg)、宇宙についての本を著しました。1988年に出版されたこの著書「A Brief History of Time」は世界中で大反響を呼ぶことになります。

医者の初期の診断は当たらず、その後55年間、ホーキングは生き続け、アインシュタインに続く天才といわれるようになったのです。

私の友人マンフレッド・ヘルバーグがケンブリッジ大学を卒業して、ずいぶんと年数が経った頃です。ある国際会議ですっかり著名になっていたホーキングの講演を聞き、講演の直後、話に行ったら、「君のこと覚えているよ」というホーキングの言葉、それはコンピューターの画面に映し出されることで伝えられたそうです。その当時、ホーキングはすっかり声を失い、車いすに取り付けられた、ハンドクリッカーを親指で動かして、コンピューター操作により、人とのコミュニケーションをとっていたのです。

その後も彼の病状はゆっくりと進行し、次第に手の力が弱くなり、親指を動かすことさえできなくなってきました。それで、眼鏡に取り付けた赤外線装置によって、頬の筋肉の動きを検知するデバイスにより、本の執筆や合成音声による会話をしていたというのです。

さらにホーキングの身体能力は低下を続け、頬の筋肉さえも通信手段には使えなくなってきました。それでもホーキングの頭脳は明晰で、視力も衰えませんでした。視線認識を使った文字入力、文字認識、自動的に文章を予測する単語予測。進んでいく症状のステージに合わせて、最新鋭の技術が使われ、彼の生活を可能にして、研究活動を継続することができたのです。

それらの最新技術のおかげで、ホーキングは亡くなる10日前まで、合成音声(text-to-speech synthesizer)により、共同研究者と議論し、論文の執筆に携わることができたのです。そうして、彼の「最後の論文」は彼の死後1ヶ月以上経ってから、発表されることになったのでした。

26. 新学年の始まり

3月23日の学位記授与式(卒業式)、3月30日の退職者等辞令交付式、4月2日の新規採用者辞令交付式および入学式、4月4日の教職員総会をはじめとした、年度末、年度始めの行事が一段落です。卒業式、入学式ともに晴天に恵まれ、学部の式は講堂、大学院の式は三浦幸平メモリアルホールで行われました。ここで、式辞と総会で述べたことの一部を記して、新年度の出発としたいと思います。

(1) 学位記授与式(学部) 
講堂を埋め尽くした、中部大学を巣立つ卒業生に向けて。今後の生き方の心構えの指針が中部大学の建学の精神『不言実行、あてになる人間』にあることを強調。まず『不言実行』:百聞不如一見(ひゃくぶんはいっけんにしかず) 百見不如一考(ひゃっけんはいっこうにしかず) 百考不如一行(ひゃっこうはいっこうにしかず)(実行するためには、人の言うことをよく聞き、しっかりと自分の目で見て、自分の頭で考え、そして行動する)。そして、『あてになる人間』:百行不如一果(百行は一果にしかず。百の行いより一つの結果、どんなに行動をしても、成果を残さなければ意味がない)。結果を出すことで、初めて、あてになる人間として認められる。
(2)学位記授与式(大学院)
メモリアルホールで行われた大学院学位記授与式。オックスフォード大学研究グループの発表論文の紹介を通して、メッセージを発信。コンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進む中で、これまで人間にしかできないと思われていた仕事が、ロボットなどの機械に代わられようとしており、今後10年から20年程度で、人間が行う仕事の約半分が自動化される。過去に蓄積されたデータの中から、事例を見つければよいだけの仕事は、コンピューターでもできる仕事になる。存続することになるのは、人間の感性を活かし、Creativity とSocial Skillを必要とする職業。自分の持つ考え方を大事に、そして仲間との関係を大切に。
(3)入学式(学部)
今年は学園が80周年を迎える記念すべき年であり、まず学園の80年の歴史をふりかえる。そして、「セレンディピティ」という言葉を紹介。偶然に何かを発見する能力、と理解されているが、実際には問題意識を持っている人だけが、何かを発見できる、それが偶然のように見えるだけ。未知の世界に飛び込んでいくこと、仲間を増やすこと。7つの学部が春日井のキャンパスにある総合大学だからこそ、できることがある。
(4) 入学式(大学院)
20世紀の後半はデジタル化の波が来て、デジタイゼーション(digitization)が進行。20世紀終わりごろに始まったインターネットが、あっという間に広がり、世界の人口74億人のうち36億人がインターネットにつながっている。21世紀にはいって、情報流通と機械による処理のデジタル化はデジタライゼーション(digitalization)と呼ばれ、AIやIoTと言われるように、急速な展開を見せている。これからは専門知識を覚えるだけではなく、専門知識をいかに正しく使うかを学ぶことが必要。
(5) 教職員総会
『中部大学-学びの拠点を目指して』と題して、学園の80年、そしてこの一年を振り返り、これからの大学の在り方について、メモリアルホールいっぱいの教職員に対して語りかけた。
「教育」と言う文字には、上から目線で、教養のある者が無知なる者にたいして、知識と思想を教え、望ましいと思われる姿に育てていくと言う響きがある。最高学府である大学は、単なる知識やスキルを教えるのではなく、個々の才能を引き出す人間力創成の場でなければならない。大学は教員が学生を教える教育の場と言うより、学生・職員・教員がともに学び、それぞれの才能を引き出す学びの空間と位置づけるべきである。
プロクラステスのベッドを学びの場に持ち込んではならない。(プロクラステスはギリシャ神話にでてくる山賊で、旅人を捕まえては彼のベッドに括り付け、ベッドに合わせて、旅人が小さければ脚を引っ張って伸ばし、あるいは大きすぎると足をちょん切ったという話。)
大学と言う学びの場では規格にあわない者を排除してはならない。中部大学を学びの拠点とするため、今年度からスタートする、人間力創成総合教育センターを中心に、これから学びの構造を変えていく。学生・職員・教員がすべて学びのなかにあり、個を大事にして、一人一人の才能を見出し開花させる自由な学びの空間を作り上げていくことを力説した。

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学部2,385人、大学院124人が卒業(3月23日)

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学部2,673人、大学院125人の入学生を迎えた(4月2日)

25. 4月1日の思い出

平成30年4月1日。
春日井の朝はすがすがしく、春らしく桜も至る所満開となりました。
2月、3月となんと忙しかったことでしょう。何度かブログを書きかけて、中断してしまうと、書き始めた内容が続かなくなって、また新たな話しを始めたと思ったら、また中断。
とうとう4月になってしまいました。

そうした中で書きかけていたことを、日曜(4月1日)の朝の目覚めとともに思い出してコンピュータに向かっています。先日午前中、50号館で会議が終わって、建物の外に出ると、外はめずらしく小雨が降っていました。

あれっ? ここ昔来たことがある。不思議な感覚です-昔慣れ親しんだ場所。デジャヴ?

右手には人文学部の建物。ここは元の中部大学女子短期大学の入り口が残っていて、キャンパスの中でも少し趣の違う、華やかさを持ちつつ落ち着いた空間です。左手に、道を隔てて、洞雲亭の生け垣。ここには茶室「工法庵」と「爛柯軒」、書院「洞雲亭」があるので、静寂な空間を作り上げているところです。でも木が多くて見えるのは木々と生垣のみ。

デジャヴ(déjà vu、already seen)とは実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる既視感のことですが、この場合には僕の子どものときの記憶です。だから追憶という方が当たっているのかもしれません。

記憶は小学2年生の時に戻ります。家族は僕の生まれ故郷の大阪府吹田市から兵庫県川西市に引っ越してきました。猪名川を超えるとそこは兵庫県で、新しい住まいは「鶴の荘6条通り」にありました。まっすぐな道で、その日はしとしとと雨が降っていました。まっすぐな道の向こうに、池田市にある五月山(さつきやま)の白い展望台が見えるのです。

その鶴の荘6条通りのたたずまいが、50号館前のたたずまいに重なったのでした。ちょうど小雨が降っていたからでもあるのでしょう。鶴の荘6条通りには大きな家が並んでいて、生け垣の緑が多くて、道の両側に小さな浅い水路があり、水路にはところどころに水溜まりがもうけてあり、水路に入っては、そこに集まってくるザリガニを取ったものです。尺八と琴を教えている屋敷があり、家の外まで尺八の音が聞こえ、また別のお屋敷では踊りのお師匠さんが日本舞踊を教えているといった風でした。

そのころ、いじめというのはなくて、転校生は人気者でした。2学期になると学級選挙で学級委員に選ばれるぐらいでした。6条通りには学校の友達がよくやってきて、「少年探偵団ごっこ」、「かくれんぼ」、「はじめの一歩」、「缶けり」や「瓦(かわら)あて」をして遊んだものです。そういえば瓦あてに使う割れた屋根瓦は5条通りと6条通りをつなぐ路地裏にはいくらでも転がっていた時代でした。少し離れたところに瓦を立てて並べて、ボーリングのように別の瓦を転がしてあてっこするのです。ひろ子ちゃん、よう子ちゃん、みよちゃん、たみお、きよかず、たけし、きみお、たもつ。今でも思い出せるのが不思議です。そういえば、ターザンごっこをしていて、腕の骨を折ったのも6条通り。そのため僕の腕の長さは今でも左右違うのです。

引っ越しの日の雨の6条通り、それにつながって楽しかった小学校の思い出が戻ってきました。小学校2年生の4月1日、たまたまそれは昭和30年4月1日のことでした。

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50号館の前から見た小雨の中の風景は、小さいころ住んでいた「鶴の荘6条通り」を思い出させてくれた。(平成30年4月2日撮影)

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ネットで見つけた猪名川と五月山の写真に、小学生の時の写真を重ねてみた。山の中腹には白い展望台がある。われら少年探偵団は猪名川につながる土管を秘密基地にしていた。
[呉服橋(くれはばし)より撮影:http://www.hankyu.co.jp/ekiblo/hensyu_bu/6394/]

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