学長ブログ

2018年5月26日の記事

29. かこさとし(絵本作家との出会い)

絵本作家として知られた、かこさとし先生は、1926年3月31日に生まれ、この5月2日に亡くなられました。92歳でした。

2008年12月5日、かこさとし先生は「絵本作家、児童文学者としてのユニークな活動と、子供の遊びについての資料集成『伝承遊び考』全四巻の完成」により菊池寛賞を受賞されました。東京・ホテルオークラで菊池寛賞贈呈式があり、授賞式に招かれた私は、受賞者のテーブルで、かこ先生の隣に座って、家族と一緒に先生の受賞を共に喜ぶ機会に恵まれました。かこ先生は終始にこやかにしておられながらも、頸腰椎症で執筆活動が滞っていると話され、奥様は、かこ先生は目がさらに見えにくくなっているのに、紙に顔を近づけながらも絵を描いているとおっしゃっていました。高校で教えておられた長女の万里さんは、そのときには加古総合研究所にはいり、かこ先生をサポートしていらっしゃいました。

かこ先生との出会いは、私が先生に手紙を書いたことがきっかけです。すぐに先生から手紙をいただいて感激したものです。私は大学でのプラズマの講義や一般向けの講演の中で、かこ先生の絵本「宇宙―その広がりを知ろう」を紹介しています。美しい地球の絵、地球の周りを飛んでいる衛星の絵、地球を離れて描かれる宇宙は、科学的にも正確で、かつ見ていてわくわくする大好きな絵本でした。

かこ先生は少年時代、軍人になろう、航空士官になろうと思ったそうです。当時日本は軍国主義の時代で、日本が太平洋戦争に入っていった頃のことです。かこ先生は航空士官になるための学校に入ろうとしたけれど、近視がひどかったために、望みはかなわなかったそうです。高校では、俳句を作り、俳号を「かこさとし(加古里子)」と名乗ったそうです。かきくけこの「かこ」で、父親から名付けられた哲をひらがなで「さとし」。

終戦の年1945年4月、東京大学工学部化学科に入学。19歳の8月、大学1年生で敗戦を迎えます。かこ先生は考えます。自分は近視でなければ、軍隊に入って飛行機に乗っていたであろうと。そして実際に、共に軍人を目指した級友達が皆、特攻機で死んでいったことを思うと、かこ先生の心には深く、『自分は死に残り』だという思いが消えず、その後の生き方を決定づけることになるのです。多感な青年時代を戦時期に過ごされたわけで、戦後生まれの我々には、計り知れない思いがあるのでしょう。

先生は東大卒業後、昭和電工に入社。研究所で化学研究に没頭し、1962年には工学博士となっておられます。会社に勤めながら、子供の世界に入り、子供の遊びを研究し、絵本作家としての道を歩み始めることになるのです。

かこ先生の言葉を借りれば、「真に科学的な科学の絵本を作る」ために、1973年に昭和電工を退社し、仕事場を兼ねた新居を構え、アトリエを増設して、加古総合研究所を設立されたのです。多くの絵本を描きながらも、10年がかりで、「宇宙―その広がりを知ろう」を完成。先生は1980年代に、絵本を描くかたわら、大学(東大、横浜国大)で児童行動論の授業も教えておられました。

先生は中学校から近視がひどかったのですが、1970年代後半に緑内障を患うのです。それ以来、左目はどんどん悪くなり、ほとんど見えなくなっていきます。そして近視の右目も、晩年には手の平ほどの視野しか残らない状態となっていきます。それでもかじりつくように描き続け、創作意欲は衰えることなく、90歳を超えても描き続けられ、生涯に600冊に上る児童書を含め、700を超える作品を出版されたのです。

かこ先生のご冥福を祈ると共に、先生との交流の思い出を大切にして、残された者として、かこ先生の非戦への思い、将来を担う子どもたちへの思いをすこしでも受け継いでいきたいと思っています。

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