写真を撮るということ、そんなありふれた行為写真部

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皆さんこんばんは、Fです。今回は"写真を撮る"そんなありふれたテーマでお送りいたします。と、言うことで山岳写真シリーズ最終回は今回もお休み、楽しみにされている皆さん申し訳ありません。山岳写真についてまたじっくりとしっかりと書きたいと思います(今週中には、と考えています)。DSCN6215.JPG (これはメモの意味を持った写真の一つ、意味としては"自分がその場所に行った"だろうか。)

皆さん、唐突ですが写真っていつ撮りますか?何かイベントがあった時、気が向いた時、それからやっぱり"何となく"。それから授業などの資料をパシャリ、なんていうのもありますよね。

体験航海 あたご 017.JPG

 

少し前までの自分の事を少し話させて下さい。 少し前までの自分は写真を撮るという"ありふれた行為"を特別視していた時期がありました。写真は"残すものだから"、って。だから思い出に残さないメモみたいな写真は写真じゃない、な~んて考えたりして。なんとも気取った考え方をしていたものだと今は思きづかいます(笑)。 しかしある時、そんな考えでいいのだろうか?と考えさせられる出来事がありました。 それが"東京カメラ部"をめぐる議論を目にしたことです。"東京カメラ部"、日本では最大級の審査制写真投稿サイトです。そこで審査を経て選ばれる写真の多くが"過度な編集"が行われた写真であるという事です。それに対し"そんな物は写真ではない"との批判が寄せられていることを目にしたのです。 自分の考えとしては"写真とはその人が好きにすれば良い"が根底にありましたからそのような批判には反発を覚えました。しかし、そこでふと気づかされたのです。"メモみたいな写真は写真じゃない"という考えを抱いていた自分もまた写真を縛っていたのではないか、と。

写真を撮るという行為は至って普通の行為です。なんら特別な行為ではありません。誰がどんな思いでその一枚を取ったのか、それは撮った本人にしか解りません。だからこそ、写真はこうあるべきという考えは持っていても押し付けるべきではありません。
幅広い表現の仕方や個々人の思いにより捉えれる被写体、そんな自由な"行為"であるからこそ考えの押し付けは避けるべきです。と、言っているこの行為もまた考えの押し付けなのかもしれません。ですからこれ以上は語りません。

願う事はたった一つだけです "多くの人が写真に触れてくれれば楽しいな"。

以上で今回の内容の締めとさせて頂きます。本日もお読み頂きありがとうございました。