3月14日(土) 京王電鉄をご紹介 -Vol.1-鉄道研究会

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皆さまこんにちは。ブログ担当の新3年坂本でございます。

先般、鉄道研究会では関東の東京急行電鉄(以下、東急)京王電鉄(以下、京王)の博物館を巡る春合宿を開催いたしました。

個人的な話を申し上げると、私は幼少時東京や横浜で過ごしたり、帰省も関東方面であったりすることから、本合宿はとても楽しませて頂きました。

しかしながら本学は愛知県に所在し、日頃ブログをご覧下さっている皆さまも関東の私鉄にはあまり馴染みがないものと存じます。

そこで今回は、合宿で訪れた博物館のうち、京王れーるランドを運営する京王電鉄のご紹介と、京王れーるランドに保存されている車両4両について、何回かに分けてご紹介してまいります。

今回は1回目として、京王の歴史、沿革、そして各路線の簡単な紹介をいたします。

なお、写真はほぼ全て坂本が撮影いたしておりますが、一部の写真はネット上の写真転載可能なサイトから転載している場合がございます。1回目にはそのような写真はありませんが、そうした写真を載せる際にはその旨明記いたしますので、なにとぞご理解くださいませ。

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⇧京王れーるランド屋外展示スペースの保存車両。

 手前から2400形デハ2410、2010系デハ2015、5000系クハ5723、3000系クハ3719、6000系デハ6438の順。

皆さまは京王の路線に乗られたことはおありでしょうか?

そもそも京王とは、

新宿(東京都新宿区)、渋谷(同渋谷区)を主なターミナルとし、

・新宿~京王八王子(東京都八王子市)間を結ぶ京王のメイン路線で、沿線に世田谷区、調布市、府中市、日野市など東京都下西側の主要都市が連続する京王線(37.6km)

京王線調布(調布市)から分岐し、多摩川を渡って神奈川県内に入り、多摩ニュータウンやショッピングモールが近年発展する南大沢(八王子市)などを通って、JR横浜線、相模線と接続する橋本(神奈川県相模原市)まで向かう相模原線(22.6km)、

 京王線北野(八王子市)から分岐し、元々は戦前に存在した御陵線を前身とする路線で、狭間、めじろ台などの新興住宅地、JR中央本線と接続する高尾(同市)などを通って、東京から気軽に行ける山として人気がある高尾山への玄関口である高尾山口(同市)まで向かう高尾線(8.6km)

京王線高幡不動(日野市)から1駅のみで分岐し、関東有数の巨大動物園である多摩動物公園や同園の近くに散在する各大学、さらに近年は件の京王れーるランドへのアクセス路線として機能する動物園線(2.0km)、

京王線東府中(府中市)から1駅のみで分岐し、終点の府中競馬正門前(同市)では秋の天皇賞を始めGⅠなど様々な重要レースが行われることで知られる東京競馬場正門に直結する競馬場線(0.9km)

・新宿を起点とする京王線とは出自が全く違う路線であり、渋谷駅から下北沢(小田急線に接続)、明大前(京王線に接続。以上、世田谷区)、永福町、久我山(以上、杉並区)など東京の中でも人気の町を通って、JR中央本線と接続し、近年では「住みたい町NO.1」に選ばれることも多い吉祥寺(東京都武蔵野市)までを結ぶ井の頭線(12.6km)、

京王線笹塚(渋谷区)から分岐し、京王線は停車しない幡ヶ谷(同区)、東京オペラシティー最寄り駅の初台(新宿)にも停車しながら、最終的には京王線とは少し離れた甲州街道の真下に位置する新線新宿駅に到着し、その先は都心や千葉県内に向かう都営地下鉄新宿線(以下、都営新宿線)へと直通する京王新線(笹塚~新宿間の別ルート扱い)

の6路線が存在し、京王線新宿駅の平均乗降人員が730,849人(2013年、京王発表)と私鉄の駅では日本一を記録するなど、日夜東京西側に住む多くの人々を運ぶ輸送手段として機能しています。

元々京王線系統は京王電気軌道、玉南電気軌道といった種々の中小企業の路線を前身としており、1913(大正2)年4月に最初の区間である笹塚~調布間が開業しています。当時は「軌道」の名が表すように路面電車のような路線で、現在も調布までの区間は踏切が多く、ほぼ全線複線で立体化も他路線と比べあまりなされていないなど、随所に軌道発祥の路線であることが分かる個所があります。

その後合併を繰り返したのち、戦時中は陸上交通事業調整法のもと、東京急行電鉄(いわゆる「大東急」)に合併されましたが、戦後東急から解放されると1955(昭和30)年には競馬場線1963年には現在の地下にある京王線新宿駅、1964(昭和39)年には多摩動物公園線(現在の動物園線)、1967(昭和42)年には高尾線と相次いで新線が開業。そして1971(昭和46)年には戦前には京王多摩川まで1駅のみだった相模原線が京王よみうりランド(東京都稲城市)まで伸び、その後京王多摩センター、南大沢と路線を伸ばして、1990(平成2)年には終点の橋本まで開業しました。

さらに1978(昭和53)年には都営新宿線との相互乗り入れを実施するにあたり、いわゆる京王新線区間が開業、それまで京王線にあった幡ヶ谷、初台の両駅を移転させ、ほぼ現在の路線網ができ上がりました。

railroad20150314-3.JPG⇦1963(昭和38)年に登場した稀代の名車、5000系

開業当時は東京市電の路面電車(のちの東京都電)との乗り入れも目論んでおり、それに合わせて線路幅も1,372㎜(いわゆる偏軌、馬車軌)という非常に特殊なものを採用しています。ちなみに当然ながら都営新宿線も偏軌を採用しています。

一方井の頭線は、東京山手急行電鉄という、JR京浜東北線大井町(大田区)から世田谷区雪ヶ谷、明大前、自由ヶ丘、中野区中野、練馬区江古田、板橋区下板橋、足立区北千住などを通って江東区洲崎町まで向かう、当時の東京市の外周を約50kmにわたって回る大規模郊外路線計画との接続路線を発端としており、その経営母体は小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)と同じ鬼怒川水力電気という会社でした。

しかし世界恐慌の影響で大規模郊外路線計画は破綻をきたし、規模を縮小して社名を帝都電鉄と改称。そして1933(昭和8)年に、渋谷~井の頭公園間が開業しました。京王線と比べある程度東京市(当時)郊外の道路網などが形成されてから開業したため、当初から立体交差が積極的に採用されているのが特徴です。ちなみに線路幅も国鉄と同じ1,067㎜(狭軌)が採用されています。

その後小田原急行鉄道の路線の一つとなった同線ですが、戦時中にはやはり「大東急」に合併されたため東急の路線となりました。

戦争が激化すると沿線は米軍機による無差別爆撃の標的となり、当時線内にいた車両のほとんどは焼失するなど非常に大きな被害を受けました。

そして戦後の1948(昭和23)年、「大東急」が分裂することになった際京王と小田急電鉄の財産争いの末京王の経営状況などを鑑みて旧帝都電鉄の区間は京王の持ち物となることが決定し、井の頭線として新たなスタートを切りました。

1998(平成10)年までは会社名を京王電鉄ではなく京王帝都電鉄と名乗っており、旧帝都電鉄区間を路線に含むことが明確に表されていました。

現在でも明大前駅付近には東京山手急行電鉄計画の名残が随所にみられます。

その後1962(昭和37)年には日本製オールステンレス車両の嚆矢ともいえる3000系が導入され一気に近代化が図られたほか、

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⇑日本製オールステンレス車黎明期の名車3000系(車体改修後)

1971(昭和46)年からは急行運転を開始、さらに1984(昭和59)年には3000系による旧型車置き換えを完了しました。

そして1995(平成7)年からは新世代車1000系の導入と3000系の大規模車体改修を開始、さらに2007(平成19)にはマイナーチェンジタイプの1000系(1020番台)が登場し、2011(平成23)年までに3000系を全車置き換えています。

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⇑現在井の頭線の主力車両となっている1000系(1020番台) 井の頭線吉祥寺にて

2012年には全線においてATCの使用が始まり、同時に営業用車両全車のVVVFインバータ制御化も達成しています。

以上が京王の大まかな歴史、沿革、各路線の簡単な紹介となります。

 今回はここまで。次回は車両について述べてまいります。

鋭意作成中ですが、今しばらくお待ち願います。

また、今後は関東系私鉄会社の紹介を折を見てやっていこうかと思いますので、よろしくお願いいたします。

~つづく~