学長ブログ

30. かこさとし(子どもに学ぶ)

1926年生まれの、中島哲博士が、この5月2日に92歳で亡くなられました。絵本作家「かこさとし(加古里子)」として知られた先生は、死ぬ直前まで執筆活動を続けられていました。前回のブログ『29. かこさとし(絵本作家との出会い)』に続き、加古先生が、残された我々に伝えようとされたことを、私が持っている、加古先生の書かれた本を中心に追ってみようと思います。

とこちゃんはどこ.jpg 『とこちゃんはどこ』(松岡享子/作 加古里子/絵 福音館書店、1970)

私がカナダにいるころ、長女誕生のお祝いで、友人から送られてきたのが、加古先生が絵を描かれ、松岡享子さん作の『とこちゃんはどこ』でした。我が家の子ども4人は、とこちゃんが大好きでした。加古先生の絵本は、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(1967)や、『からすのパンやさん』(1973)など、子どもの心をつかんではなさないものでした。加古先生は、会社勤めのころにかかわったセツルメント活動を通して、紙芝居を作って子ども達に見せ、子どもは鋭い観察者であることを、身をもって体験していたのです。紙芝居をしていて、内容がつまらないと、一人減り、二人去り、誰もいなくなってしまう、そんな経験によって、子供の心をつかんで離さない、加古先生の独特の絵本の世界ができあがっていくのでした。

『遊びの四季 ふるさとの伝承遊戯考』(加古里子/絵・文 じゃこめてい出版、1975;復刊ドットコム、2018)

加古先生は、セツルメント活動を通して、子どもから遊びを教わっていきます。子どもは、加古先生の言葉を借りれば、「人格を持っており、大人と同格でありながらも、子どもは成長し、時間とエネルギーを浪費、空費、乱費した挙句に、バタンキューと眠ってしまいます。」加古先生は子どもの遊び事例を徹底的に集め、そこから生きている子どもの姿を、浮かび上がらせたのです。私自身、小学校の校庭で、地べたに座り込んで「地面取り」に興じた記憶があり、珠算塾の仲間と「ゴムひもとび」に興じたことを思い出します。エノコログサ(ネコジャラシ)の穂は、手のひらで作った筒に逆向きに入れて、指を小刻みに動かしてしごくようにすると、その穂は下から上に昇っていき、するすると手の筒から出てくる様子を、毛虫だぞーと言って、友達をからかったことも覚えています。そうした事例もたくさん出てきます。

文字絵.jpg  

「絵描き遊び」の文字絵(筆者による)

加古先生に対するインタビューをもとに構成され、1999年に出版された『加古里子 絵本への道―遊びの世界から科学の絵本へ―』(福音館書店、1999)には、絵本の修行時代からの話が載っています。第1章で紹介される「絵描き遊び」の文字絵で、「へのへのもへじ」は、私も小さいころよく描いたものです。「このつらてんぐ」は天狗の目と大きな鼻、「ヘマムショ入道」は坊主頭の入道の小さな顔と耳、目、とがった鼻、口とあご、目を細めてみないと、なかなかわからないかもしれません。絵本の表現法から、科学絵本に取り組む姿が、語られていきます。

かわ.jpg 『かわ』(加古里子/作・絵 福音館書店、1966)

1966年に出版された『かわ』は 「たかい やまに つもった ゆきが とけて ながれます」ではじまり、そして谷川となり、発電所では電気を起こし、人々の暮らしの一部となって、大海原に注いでいきます。「うみを こえて いこう。ひろい せかいへ―」で終わります。鳥の目と虫の目を使って、川の全容が描かれており、子どもだけでなく、大人になった我々にも、好奇心と探究心を呼び戻してくれます。総合的に、俯瞰的に描く、かこさとし科学絵本の誕生です。

海.jpg 地球.jpg 宇宙.jpg
『海』(1969) 『地球』(1975) 『宇宙―そのひろがりをしろう―』(1978)
( 加古里子/文・絵 福音館書店)

1969年に出版された『海』は、「みなさんはうみをしっていますか。」で始まり、「あなたも うみを しらべて たんけんして、 そして うみを すきになってくださいね。」で終わります。波打ち際から始まり、少しずつ深い海へと、そして遠くの海へと、正確な数値データと共に描かれていて、子どもの時に読んでも、大人になっても、読み返したい絵本です。

1975年に出版された『地球』は大型の科学絵本。地表から地球の中心部にわたって描かれています。地球の巨大なエネルギーが地球を変えていく―「それにしても、わたしたちがすんでいる この ちきゅうのなかの ふかい ふかい おくで おおきな がんせきのながれが ゆっくり ゆっくり めぐっているということは なんと すごいことでしょう」

私が講義や、特に小学生向けに行う講演の中でも使わせていただいている『宇宙―そのひろがりをしろう―』は1978年に出版されました。加古先生が、「この一冊の本をまとめる作業時間ほしさに、25年勤務した会社を退いた」と、言っておられるだけあって、内容は科学的な実証にもとづきながらも、夢のある絵本として描かれています。「もう わたしたちの うちゅうせんは ちきゅうから なん10まんキロメートルも はなれた ところへ やってきました。ここまでくると たかいと いうことと とおいと いうことが おなじになってしまいます。」 最後の締めくくりは、「この ひろい うちゅうが あなたの かつやくするところです。では うちゅうのはてから おわかれします。さようなら!」

1996年に出版された『小さな小さなせかい』(偕成者、1996)では、10-1mの世界から、10-35mの世界まで紹介されます。最後のページでは量子宇宙が語られるのです。絵本の世界においても、実に科学的に正確に描かれているのです。締めくくりは「約140億年前のあるとき、10-35mの小さな小さなせかいにゆきつきます。」なんとこれは、先日、加古先生の亡くなる49日前に亡くなったホーキング博士の語る量子論的宇宙の世界のことではないですか!ホーキング博士が追い求めた量子論的宇宙から古典物理学的宇宙への物語が、加古先生によって絵本の世界で見事に語られているのです。

同じ年に出版された『大きな大きなせかい』では、10-1mの世界から、1027mの世界まで紹介されます。締めくくりは「光の速度でひろがっている宇宙が、いま知ることができる、いちばん大きくひろい世界となります。そうした世界で、わたしたちは生き、考え、くらしているのです。では、宇宙のはてから、みなさん、さようなら」

私は、テキサスで、そして日本に帰ってきてから横浜で、大学生、大学院生を相手にプラズマの講義をして、その講義ノートを一冊の本として出版しました。『プラズマ物理科学 フェムトからハッブルのプラズマ宇宙』(電気書院、2014)。そこでは第1章が「10-19mのプラズマ宇宙 クォーク・グルーオンプラズマ」で、小さな小さなプラズマ宇宙から始まり、最終章の第6章は「1026mのプラズマ宇宙 加速膨張する宇宙、コンプレックスプラズマ」で、大きな大きなプラズマ宇宙を扱っています。しっかり、加古先生の影響を受けているように感じています。

『ならの大仏さま』(福音館書店、1985; 復刊ドットコム、2006)         

1985年に出版された『ならの大仏さま』のあとがきに、加古先生は、「広い科学的な立場」をとったこと、「心や宗教」のことも含めたことを強調されています。自然科学と社会科学両面から検討考察を加えたと言っておられます。それによって「どうして大仏を建てたのか」を絵本の中で、答えていこうとされたのです。聖武天皇と光明皇后の時代から昭和に至るまで歴史的な背景とともに、語られていきます。加古先生は言います。「大仏の建立者は誰かを簡潔に覚えさせようと、二者択一の方法で追い込めば、クイズまがいの知識となり、それが「学力」として横行することになります。」『ならの大仏さま』には、1000年以上の出来事と、主要記載人物73人と、画面登場3,000人が入り乱れて、描かれているのです。

ピラミッド.jpg 『ピラミッド●その歴史と科学●』(加古里子著 偕成社、1990)

1990年出版の『ピラミッド●その歴史と科学●』では、ピラミッドの構造、建造に使った道具、エジプトの神々の系譜、当時の人々の暮らしぶり、歴史が見事に、児童に向けた絵本として出来上がっています。複雑で、大人でも理解が難しいと思われる歴史や科学のことも、子どもをひとりの人間として考えるからこそ、正確に、そしてわかりやすく記述されているのがわかります。

万里の長城.jpg 『万里の長城』(加古里子/文・絵 常 嘉煌/絵 福音館書店、2011)

2011年に出版された『万里の長城』。加古先生の書かれたあとがきと、本の発表時のインタビュー(読売新聞、2011年6月)の中から、先生が『万里の長城』を描かれた意図を感じ取ることができます。地球や生命の誕生、人類の誕生から遡って話は語られます。紀元前3世紀、中国を統一した秦の始皇帝が、北方の遊牧民族の侵入を防ぐために、騎馬が超えられないだけの高さの土で長城を作りました。漢の時代になると西に延長され、その関所を守る部隊が派遣されていくのです。長城の近隣に居住する人々の動向を知り、それに対応していくことが重要な事となっていきます。次第に長城は異民族の侵入を防ぐためと言うより、異民族同士が交流し、社会や文化のつなぎ役としての役割を果たしていきます。加古先生は長城が、現在世界で起きている民族対立、民族紛争を解決するための、具体的解決事例を提供しており、そこに学ぶべきことがあり、異文化や異民族が共存する道を示唆しているとおっしゃっています。

未来のだるまちゃんへ.jpg 『未来のだるまちゃんへ』(加古里子著 文藝春秋、2014) 

加古先生は、『未来のだるまちゃんへ』の中で、「震災と原発」について語っておられます。「研究所にいた折、原子力についても研究対象であったので少しばかり関係していたのですが、そのとき得られた技術範囲、エネルギー効率、経済性、研究成果などが40年後も少しも前進が見られていないのに、巨額が投資される理由はなんなのでしょうか」

加古先生は自分の思いを述べられます。「僕自身、敗戦後70年近く経ったのに、的確な「戦争」の絵本、非戦の絵本を描く見取り図ができていないのが恥ずかしいかぎりです。あと余命がどのくらいあるのかわからないし、果たして間に合うのかどうか。しかし、なんとしても間に合わせねばと思い続けているのです。」

戦争の本質を描く試みは、何度も企画を立てては自らボツにしたそうです。「大往生とはいえ、その1冊を読みたかった。」と書いたのは、朝日新聞の天声人語(2018.5.8)です。私も、まったく同感ですね。

加古先生が、最後の章で、「これからを生きる子どもたちへ」、こんな風に言っておられることが印象的です。
「大人の持っている尺度で、『これに合わせろ』と言っても、それは今どきの大人並みにはなるかもしれないけれど、それを超える力にはならないでしょう。」
「『誰かに言われたからそうする』のではなく、自分で考え、自分で判断できる、そういう賢さというのを持っていて欲しいのです。」

加古先生は、こどもの遊びから学び、こどもの観察する力の鋭さに学び、絵本を通してこどもの心に入っていこうとされました。人類が来た道を、その歴史を、人間の営みを、人間が作り上げ、明らかにしてきた自然の仕組みを、そして科学を、観察力の鋭いこどもに話すように絵本を作り上げてこられました。そこには人間が生きる喜び、宇宙の中で、この素晴らしい自然の中に生きる人間の喜びを、伝えようとされたのだと思います。