学長ブログ

27. ホーキング(余命2年の宣告後、活躍を続けた宇宙物理学者の死) 

車椅子の科学者として知られたスティーブン・ホーキングは、1942年1月8日に生まれ、この春 3月14日に76歳の生涯を閉じました。亡くなる直前に書き上げた論文「A Smooth Exit from Eternal Inflation?」(永遠の膨張からのスムーズな離脱?)は1ヶ月以上経った4月27日、独科学雑誌Journal of High Energy Physicsに掲載され、まさにホーキングの「最後の論文」となりました。

ホーキング誕生のちょうど400年前の1542年に、コペルニクスが「天体の回転について」を書き上げ、出版を見ることなく、死んでいったことを思い出します。それまで、地球の周りをすべての天体が回っていると考えられていたのが、彼の論文により、太陽を中心として地球を含む惑星が回っていると認められたのです。科学の革命がこうして起こり、それはガリレオに受け継がれ、1642年、ガリレオが死んだ年に生まれたニュートンへと、つながっていきます。ホーキングはガリレオが亡くなった300年後のその日に生まれたのです。歴史上の天才の連鎖を感じます。

私がまだテネシー大学の大学院生時代、1976年のこと、アメリカ物理学会に出席して帰ってこられた物理学教授シェー先生が、「ホーキングの話を聞いたけれど、声が小さくて聞き取りにくかった」と話していたことを覚えています。当時34歳のイギリス人のホーキングが、アメリカ物理学会で、一般相対性理論における重力特異点についての研究に対して、賞を与えられて講演をしたのです。

その後、2001年のオーストラリアで開催されたプラズマ物理国際会議で、私の仲間がシドニー大学の友人の家に集まりました。南アフリカから来た、プラズマ物理学者のマンフレッド・ヘルバーグが、彼の学生時代の話をしてくれました。マンフレッドが英国のケンブリッジ大学の学生だった1963年ごろのこと。カフェテリアで、一緒に並んでいたクラスメートのホーキングが、目の前で持っていたトレイを落としたというのです。おそらくそれが、彼の病の最初の兆候だったのだろうと、マンフレッドは振り返っていました。

ケンブリッジの大学院生だったホーキングは、21歳の時、運動ニューロン(神経細胞)の変性を起こす病気の一つで、全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、余命2年といわれました。一時、絶望的になり、博士号をとることすら無意味に思えた彼が、どうして学び続けることができたのか。それは、「22歳で出会ったケンブリッジ大学の女子学生に恋をして、婚約したからだ」と、ホーキングは回想しています。「結婚するために、仕事を得なければならないから、博士号をとると決心し、その時人生で一番、一生懸命勉強した」というのです。ホーキングは学生結婚をして、3人の子供がいます。

ホーキングが40歳になるころには、子どもの学費と増え続ける医療費のために、本を執筆することを考えたのです。出版社に原稿を持って相談に行くと、数式が一つ入るごとに、読者は半減すると言われ、すべての数式を排除し、見事に数式なしの(たった一つの例外はアインシュタインの20180430-01.jpg)、宇宙についての本を著しました。1988年に出版されたこの著書「A Brief History of Time」は世界中で大反響を呼ぶことになります。

医者の初期の診断は当たらず、その後55年間、ホーキングは生き続け、アインシュタインに続く天才といわれるようになったのです。

私の友人マンフレッド・ヘルバーグがケンブリッジ大学を卒業して、ずいぶんと年数が経った頃です。ある国際会議ですっかり著名になっていたホーキングの講演を聞き、講演の直後、話に行ったら、「君のこと覚えているよ」というホーキングの言葉、それはコンピューターの画面に映し出されることで伝えられたそうです。その当時、ホーキングはすっかり声を失い、車いすに取り付けられた、ハンドクリッカーを親指で動かして、コンピューター操作により、人とのコミュニケーションをとっていたのです。

その後も彼の病状はゆっくりと進行し、次第に手の力が弱くなり、親指を動かすことさえできなくなってきました。それで、眼鏡に取り付けた赤外線装置によって、頬の筋肉の動きを検知するデバイスにより、本の執筆や合成音声による会話をしていたというのです。

さらにホーキングの身体能力は低下を続け、頬の筋肉さえも通信手段には使えなくなってきました。それでもホーキングの頭脳は明晰で、視力も衰えませんでした。視線認識を使った文字入力、文字認識、自動的に文章を予測する単語予測。進んでいく症状のステージに合わせて、最新鋭の技術が使われ、彼の生活を可能にして、研究活動を継続することができたのです。

それらの最新技術のおかげで、ホーキングは亡くなる10日前まで、合成音声(text-to-speech synthesizer)により、共同研究者と議論し、論文の執筆に携わることができたのです。そうして、彼の「最後の論文」は彼の死後1ヶ月以上経ってから、発表されることになったのでした。