学長ブログ

52. 最初の留学生―百済

この夏、韓国の圓光大学校を訪れました。1984年以来ハンドボールが取り持つ縁で交流が続いています。ソウルから南に180キロ、春日井市と同じ人口31万人の益山(いくさん)にあります。

韓国では日本以上に少子化が進行しており、数か月前に発表されたところでは、出生率が1.0を割り、世界でも最低水準となっています。ちなみに日本では1.42。大学入学人口も減少しており、圓光大学校では、学生を集めるために周辺地域から入学してくる学生のためにバスを用意しており、キャンパスの駐車場に並ぶバスの列に圧倒されました。昨年中部大学を訪れてくださった朴先生が、圓光大学校の総長になられたので、一緒にハンドボールの交流戦を観戦し、共にキャンパスをめぐり、多くの人に出会い、さらなる学生交流を約束しました。

大学のある益山の近くにある扶余(ぶよ)の街を訪れました。4~7世紀に栄えた古代朝鮮の百済(くだら)の最後の都があったところです。百済末期に建てられたという皐蘭寺(こうらんじ)の壁に描かれた絵の中に、百済の宮廷女性たちの様子が描かれていました。660年に新羅に攻められて、後に落花岩と呼ばれるようになった絶壁から身を投げたということです。そしてもう一つ目を引いたのが「日本から留学してきた尼」の絵。

外国に行って、歴史の出来事に思いをはせることがよくあります。この絵との遭遇もその一つです。

朝鮮半島から渡ってきた渡来人によって、6世紀までに日本ではすでに仏教が広まっていたそうです。そうした時代背景の中で、日本から最初の留学生は百済にわたった15歳の善信尼(ぜんしんに)と、あと二人の少女だったのです。588年のことだそうです。3人の少女は、約1年半、扶余のお寺で修行して日本に帰国したということです。

書の街春日井市にゆかりのある、10世紀に活躍した小野道風の祖先にあたる小野妹子が遣隋使として派遣されたのが607年なので、それより19年も前に最初の留学生が海を渡っていたことになります。日本から最初に海外留学したのは3人の少女だったのです。

時を超えて、今は中部大学と圓光大学校の交換留学生が二つの国をつないでいることに思いを馳せていました。

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皐蘭寺の壁に描かれた4枚の絵。手前にあるのが善信尼ら3人の少女(尼)が船に乗って到着する様子

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新羅軍に追い詰められて、身を投げる百済の宮廷女性達