学長ブログ

32. 人文学部設立20周年

中部大学は4年前に50周年を迎えたのですが、今年は人文学部設立20周年記念の年となります。6月27日、三浦幸平メモリアルホールで、人文学部設立20周年記念イベント「人文学部でよかった?!」 が開催されました。534人収容のホールはほぼ満席で、オープニングとしてスクリーンに投影された、20周年のために制作されたプロジェクションマッピングが、強烈な印象を与えました。これはプロの映像作家であるコミュニケーション学科卒業生により制作されたもので、挨拶に立った先輩の姿は、在学生にとっては、一つの目標となったように思います。

卒業生によるトークセッションでは、5学科の卒業生が、在籍時の思い出や、現在の自分を語って、学科の特徴を浮かびあがらせてくれました。現在中部大学の職員として学生を支援する側にある日本語日本文化学科卒業生、中部大学の教員として活躍する英語英米文化学科卒業生、卒業後様々な分野で活躍し同窓会理事も務めるコミュニケーション学科の一期生、現在高知県でスクールカウンセラーとして活躍する心理学科卒業生、旅行業界で働き同窓会理事としても活躍する歴史地理学科卒業生。
人文学部ができた背景を振り返って見ましょう。第2次ベビーブームで、女子学生の大学進学、特に短大進学が急増している1985年頃、春日井市には、中央線沿線に中部大学があるだけでした。我が学園は、春日井市の要望を受けて、女子短期大学の開学を進めることになったのです。短大として、日本語日本文化学科、英語英米文化学科の2学科構成で、1989年に中部大学女子短期大学が開学しました。
     
この春日井の丘で、現在の人文学部がある場所に、すべての建物の外観がベージュ色のタイル張りで統一され、曲線を用いた優美な建物を持つ短期大学ができたのです。円形の噴水、その中央に清水多嘉示先生制作のブロンズ像「躍動」が設置されました。周辺には、芝生を敷き詰め、さまざまな樹木と潅木が植えられました。

短大開設から10年、社会は予想を超える速さで変化していき、4年制大学へ進学する女子学生の増加にともなって、短大進学希望者は激減していくのです。日本の社会情勢はバブル経済が崩壊し、阪神大震災と地下鉄サリン事件(1995)があり、100年の歴史を持つ山一証券の破綻(1997)があり、不安定な状態になっていました。世界に目を移すと、湾岸戦争(1990)、ロシア連邦の誕生(1991)と、ソビエト連邦の解体に伴って起こった旧ソ連地域における混乱。まさに20世紀の終末は、混迷の時代に入っていったと言えるでしょう。

こうした時代背景に、現代的な視点から「人間」を問い、混迷した時代に柔軟に対応できる人材の育成を目指し、「人間(わたし)を探そう」をキーワードにして、1998年に人文学部が誕生することになったのです。

従来の人文系学科で使われていた、「国文科」「英文科」ではなく、「日本語日本文化学科」「英語英米文化学科」としたことは、これまでの伝統的な枠組みを超えて、より広い言語を巡る領域や、文化をも包含する意図を示していたものといえます。「コミュニケーション学科」は、メディアの世界に、社会学、言語学、そして心理学からのエッセンスを持ち込んで、人と人のコミュニケーションの問題の本質に取り組むことを目指したものでした。

コミュニケーション学科より分かれて、2002年には心理学科、さらに2004年には歴史地理学科が新設され、現在の5学科体制が完成したのです。 現在1,714名の在籍者がいて、2018年3月までに、5,322名の卒業生を世に送っています。

今20年経った人文学部は、人間そして人間文化について学び、未来の人間社会のあり方を考えるあらたな出発点にあるところです。21世紀に入って、グローバル化が進行し、日本そして世界では、様々な問題が顕在化してきているようにも思えます。

人間というものを見つめ、人文科学の視点に立って、広い視野で俯瞰的な目を持って、これからの社会を考えていくときが来ているように思えます。人文学部は、柳谷啓子学部長を先頭に、この20周年を機に、さらなる展開を図ろうとしています。

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三浦幸平メモリアルホールを埋めた人文学部設立20周年記念イベント
開会にあたって、20年前、人文学部ができた経緯を話しました