学長ブログ

95. 戦後75年 謝罪

広島生まれの女優綾瀬はるかさんが、これまで戦争体験者に耳を傾けてきて、今回は高校生と対談するテレビ番組がありました。その中で戦後60年経って広島を訪れた、原爆製造にかかわったアメリカ人科学者と、被爆者の対話の様子が紹介されていました。被爆者に謝罪を求められた科学者は「私は謝罪しない」と言っていたことが印象に残りました。

アメリカの大学に勤めていた私は日本人教授ということで複数のテレビ局にインタビューされたことがあります。アメリカでは12月7日のころになると特集が組まれていました。真珠湾攻撃から50年に合わせて、二つのテレビ局は私とキャスターとのやり取りを放映し、内容は日米が歩んできた友好の道に焦点を合わせたものでした。一方、もう一つのテレビ局は、私のインタビューと、真珠湾爆撃を生き残った元兵士のインタビューをつなぎ、元兵士の「日本は真珠湾攻撃に対して謝罪すべきだ」というところと、私のインタビューの一部を切り取って「私は謝罪しない」の部分だけを放映していました。

報道の仕方でこれほど印象の違う伝え方ができるものかと、恐ろしく思ったことを覚えています。同じ太平洋戦争でも、日本は終戦の日である8月15日を大きく取り上げ、アメリカでは真珠湾攻撃の12月7日(日本時間の12月8日)を大きく取り上げます。

広島出身の私の母は、台所の窓からピカッと光る原爆を見たそうです。母は原爆については多くを語りませんでした。日米にかかわらず、戦争で大事な人を無くした人の深い悲しみは、言葉では表せないことでしょう。

太平洋戦争が始まると共に、米国ではオークリッジと、ロスアラモスの国立研究所で原爆開発が行われました。同じ頃、日本でも陸軍では理化学研究所(仁科芳雄博士)を中心に、そして海軍では京都帝国大学(荒勝文策博士)を中心に原子爆弾の開発が進められていました。原爆の被爆者が出るのは日米いずれの可能性もあったわけです。

春日井市でも終戦の前日まで、空襲による犠牲者が出ました。猛暑の中、慰霊碑を訪れました(写真)。碑の前で手を合わせて、この地で起こった戦争の悲惨さに思いを巡らし、75年経った今、謝罪の言葉を超えた「世界の平和」に願いを込めました。

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春日井市の県道沿いにある慰霊碑。春日井にあった陸軍施設を狙った空襲により、多くの人が命を落としました。