学長ブログ

102. プラセボ効果

神経質な少年は夜寝床に入る時、枕元に衣服を畳んでおき、地震や何かがあったら、いつでもそれを着て逃げることができるようにしていました。伊勢湾台風の恐怖の記憶が彼をそうさせたのか、あるいは彼の用心深い性格がそうさせたのか。また少年は小学生の頃、夜に寝床に入っても寝付けない、いわゆる不眠症だったのです。子供が不眠症になるなんてと、心配した母親はお医者さんに薬を処方してもらって、それがよく効いて少年は不眠症から解放されることになりました。

少年が大人になって、亡くなった母親の思い出を兄や姉と語るとき、「母親は偉かった」と、そのことを話題にすることがあります。5人兄弟の末っ子だった少年は、母親が用意した栄養剤を薬だと思って飲んで、いとも簡単に不眠症が直ったのです。実は当時、兄や姉は薬が栄養剤だと知っていたのです。

こうした薬の成分の入っていない偽薬のことはプラセボと言われています。実薬だと偽って患者に投与すると、ある確率で症状が改善することは古代から知られており、プラセボ効果と言われています。プラセボはラテン語で『喜ばせる』という意味です。しかし、心と体の不思議な関係はまだ現代の医学でも解明されているわけでは有りません。

新型コロナウイルスが今なお世界中に広がっています。感染者は6000万人、死者は140万人になるといいます。そんな中、ワクチンの開発が次々と報告されています。グローバル化が進む今、国境を越えてウイルスは広がる一方で、国境を越えた科学者が連携してワクチンを開発しています。今回いち早く予防効果95%のワクチンを開発したと発表した米製薬企業大手ファイザーは、ギリシャ人を最高経営責任者に持ち、その共同開発に関わったドイツのバイオ医薬ベンチャーのビオンテックは、トルコからの移民1世が創業したものです。

ファイザー社は最終段階の臨床試験で、参加した4万3千人を二つのグループに分け、一つのグループにワクチンを接種し、もう一つのグループに偽薬を接種しています。プラセボ効果を相殺するための試験方法です。ワクチンを接種した人から発症者は8人で、偽薬接種者から162人の発症者が出ています。ワクチンを接種しても8人は発症していることから、(162-8)/162=0.95によって、ファイザー社はワクチンの有効性を95%と結論づけています。

プラセボ効果は心理的なものか、脳の働きによるものかはわかりません。しかし、寝つきもよくなり、不眠症からも解放された少年の神経質と言われた性格は、中学校に入り、大人になるにつれて、時に無頓着と言われるほどまでに変わっていきました。

中部大学には睡眠相談室を設置しています。神経質だった少年が学長となった今、睡眠障害で困っている学生のことを聴くと、共感するとともに、陰ながら応援をしています。