学長ブログ

2021年3月の記事

112. 総合大学(3)―文理

今日、春の美しい晴れた日に、キャンパスの講堂にて卒業式が行われました。まだ収束が見られないコロナ禍のために、ご家族・関係者の方々にはライブ配信で見ていただきました。卒業生の喜びの顔を見るにつけて、講堂での卒業式が挙行できてよかったという思いです。7つの学部と6つの研究科、文系・理系の枠を超えて、一つのキャンパスで共に学び、総合大学としての一体感を感じた日となりました。

さて、文系・理系の枠を超えて、と言えば、15世紀から16世紀にかけて活躍したイタリア生まれのレオナルド・ダ・ヴィンチのことが思い浮かびます。ルネッサンスの代表的な画家として知られたダ・ヴィンチは、絵を描くにあたり、科学的な真実と向き合っています。例えば人を描くにあたり、人の筋肉や内臓の様子まで調べ解剖図まで残しています。そこまで徹底して観察したからこそ、見る人に感動を与える人物の描写をすることができたのでしょう。

ダ・ヴィンチは、自然物を描くにあたっても、自然現象を描くにあたっても同じように観察することで、科学技術面においても優れた研究成果を残しています。例えば水の流れの描写に際しては、波を観察し、波は発生する場所から伝わっていきますが、水自身が伝わっていくわけではないという波の本質を見出しています。さらに初めて音が波であることを発見したことでも知られています。まさに文と理の両面で活躍した人と言えます。

大学での教育は一つの分野を深く掘り下げながらも、広い教養を背景に持つことが必要だと感じています。細分化しすぎた学問は、文と理が相互に関係し合って発展しています。高等教育に入る前の段階で、文系・理系と分けてしまっては、せっかくの才能の開花が邪魔されてしまうように思うのです。

文理という言葉について考えて見ましょう。広辞苑第7版によると、文理はすじめ、あや、きめとあり、文は武に対して、学問・学芸・文学・芸術などをいうとあり、理は自然科学系の学問とあります。文(01.png、(篆書(てんしょ))という字は、着物を着た正面向きの人が胸を開けているようにも見え、「あや」と読み、きれいな織物の文様(模様)のことを表します。一方、理(02.png、篆書)という字は宝石(玉)の模様の筋目をあらわし、物事の筋道を意味します。人間の皮膚で例えると、表面の細かいあやを表し、肌の肌理(きめ)や手の平の細い線が織りなす模様を連想させます。文、理どちらも模様や筋を表す言葉で、よく観察しないとわからないように、見極めようとする心は同じように思います。ダ・ヴィンチは画家としての道を究めようとして、科学の道にも精通していったのではないでしょうか。

今や、文理の境界はなくなっている、というより学問にとって境界を越えて総合的な観点を持たなければいけないと言うことでしょう。例えば、2020年のノーベル化学賞は生物の遺伝情報にかかわるゲノム編集の研究に対して与えられました。この分野は生理・医学の分野とも関連しており、人間性や人間の心の問題にも関わってきます。ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロは、クローン技術によって生まれる人間や、AIや遺伝子改変技術によって生み出される人間の価値観に焦点を当てた小説を発表しており、ノーベル化学賞の研究と文学が結びついて、学問が発展していくように感じます。

これからの日本における総合大学は、専門分野を学びながら、哲学を含めた、文理を超えた教養が身につくような教育環境を整えていくことが求められるのではないでしょうか。

今回で4年間続いた学長ブログを終わることになります。ブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

111. 総合大学(2)―大学 vs ユニバーシティ

アメリカの授業について続けます。アメリカの大学では一つの講義が週に2回または3回行われます。さらに専攻(メジャー)のほかに副専攻(マイナー)が要求されます。私が修得した学位は、Ph.D.(自然哲学博士)で、哲学と言う名前が入っているこの学位の名称を私はとても気に入っています。もし、日本の大学院に進んでいたら、工学博士を取っていたことでしょう。この二つの学位名称を見ると、日本と欧米の高等教育に対する考え方の違いが表れているように思えます。その考え方の違いを理解するために、世界における大学の成り立ちを少し振り返ってみます。

7世紀頃に日本では、官吏養成機関として「大学」が置かれ、貴族の子弟に、四道(しどう)「紀伝(歴史)、明経(みょうぎょう)(儒教古典)、明法(みょうぼう)(律令)、算道(算術)」が教えられていました。9世紀になると、空海が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開き、一般民衆を相手に教育を行っています。庶民のための全人教育であり、総合的教育を目指したものであったようです。 その後に設立されて、16世紀にスペイン人宣教師によって、「坂東の大学」として世界に紹介された足利学校は、全国から学生を集め、学徒3千と言われるほどになり、儒学研究の独自の自由な学風を生んでいました。

10世紀、イスラムの世界では、エジプトのアル・アズハル大学が、誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・受講随時・退学随時という3原則を掲げたことが知られています。

11世紀末になり、ようやく現在の欧米型「ユニバーシティ」の形につながるものが生まれます。イタリアで、学生が自治組織ウニヴェルシタス(universitas、universityの語源)を作り、学生が教師を雇用するという形でボローニャ大学が生まれ、12世紀には教師の自治組織コレギウム(collegium、collegeの語源)としてパリ大学が生まれます。中世ヨーロッパの大学では基本4科目として、専門分野に相当する神学、法学、医学と、教養科目としてのリベラルアーツがありました。さらにリベラルアーツは初歩的な言論に関する3学(文法、修辞、論理)と、より高度な4学(算術、音楽、幾何、天文)から構成されていました。

15世紀後半には、スウェーデンのユニバーシティであるウプサラ大学が創立されました。ウプサラ市と大学が一体となる形で、キャンパスの機能が市全体に広がっています。私が訪れたときに、これが大学のあるべき姿だと感じたものです。コースによっては学生が運営の中心になっているものもありました。学生のみならず市民も大学で学び、大学が市民の誇りであるように思いました。

17世紀に入り、アメリカで私立のユニバーシティであるハーバード大学ができます。教会とコミュニティのリーダーを育てるため、最初は神学が中心でしたが、19世紀になると多様な社会からの要請を受けて、独立した学部が出来上がり、人文学、法学、医学といった分野へ広がりを見せました。またアメリカでは西に開拓が進むにつれて、州立大学が作られていきます。実学である農学や機械工学が重んじられていました。

明治になって設立される日本の「大学」は、欧米型の「ユニバーシティ」の制度を取り入れているものの、官製の色が濃く、教育の仕方そのものが統制されていきます。それに比べて欧米の「ユニバーシティ」は中世の大学発祥の伝統を引き継いで、学生あるいは教員の目線で運営されているように思えます。

20世紀になると専門分野の細分化が進んでいきます。1901年に始まったノーベル賞でも、物理、化学、生理・医学、文学、経済と分野は明確に分けられるようになりました。しかし、あまりに細分化された学問分野は、総合化の必要性が指摘されはじめ、20世紀後半になると、分野を超えた学問が現れるようになっています。「ユニバーシティ」が学生・教員のニーズに沿って変化していったように、今後、日本の「大学」における学びの在り方も変化していくことでしょう。(続)

110. 総合大学(1)―好児、爺銭を使わず

禅の言葉に「好児(こうじ)、爺銭(やせん)を使わず」という言葉があるそうです。「よくできた子供は、親の財産を使わない」という意味から、禅では師の境地に満足せず、自分自身の境地を開け、と言うことだそうです。哲学者である藤田正勝氏の著述に学びました。この言葉を学問の世界に当てはめると、知識や考え方は時代と共に変化するので、弟子は師の教えを受け継ぐだけではなく、自ら学びを深め、独自のものを築きあげなくてはならない、と言えるでしょう。この言葉から、私自身の米国留学経験を思い出しました。

私が留学したのは、日本が経済成長のさなかで、GDPがヨーロッパ諸国を超えて、アメリカに次ぐ第2位となったころです。プラズマの研究で最先端を行く教授が日本に来られたときにお会いして、指導を仰ぐことにしたのです。大学院生になることができても博士候補生となるために、専攻で定められた基礎5科目について、筆記試験と口頭試問に合格しなければなりませんでした。その準備のために日本から多くの参考書を携えて行きました。しかし、それらは全くと言っていいほど役に立たなかったのです。持参した日本語の参考書は、日々進歩する学問の知識や内容に追いついていっておらず、時代遅れとなっていたからです。そのため、大学院の授業を取りながら、学部の授業も聴講して試験に備えました。

試験に合格して、プラズマの研究を始めると、世界的に有名な指導教授は海外出張が多く、ほとんど研究指導を受けられる時間がありませんでした。しかし、その結果、教授の問題提起を受けて、自ら考え理論を組み立てたからこそ、博士論文に繋がっていったと思います。指導を受ける機会が少なかった分、自分で論文を読み、学んだものでした。博士候補生になるための試験も厳しかったのですが、論文審査を含む最終試験も、相当に厳しいものでした。

博士号取得後、カナダでの研究生活を経て、アメリカの大学に戻り教育研究に携わることになりました。学科の必修科目は何でも教えることが要求されたので、教育の分野においても自分の専門であるプラズマを超えて広がっていきました。

学生は授業の前に教科書を読み事前に予習をしてくるので、授業においては教科書の内容を繰り返す必要はありません。教科書を「爺銭」とするならば、学問の進展を教師も学び、教壇に立って教科書を超えた新しい学問の展開を話すことになります。それが「爺銭を使わず」ということなのでしょう。従って、授業は教師の一方的な講義でも、単なる質疑応答でもなく、意見交換の場となるのです。教師と学生の相互作用が、授業の在り方を決めていきます。中部大学の学生が米国短期留学から帰ってくると、大きな刺激を受けたと言うのは、こうした授業展開によって、学びというものを自分のものにするすべを身に着けたからではないでしょうか。

日本とアメリカの大学の違いを理解するためには、大学の成り立ちを振り返ってみる必要がありそうです。(続)

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