学長ブログ

110. 総合大学(1)―好児、爺銭を使わず

禅の言葉に「好児(こうじ)、爺銭(やせん)を使わず」という言葉があるそうです。「よくできた子供は、親の財産を使わない」という意味から、禅では師の境地に満足せず、自分自身の境地を開け、と言うことだそうです。哲学者である藤田正勝氏の著述に学びました。この言葉を学問の世界に当てはめると、知識や考え方は時代と共に変化するので、弟子は師の教えを受け継ぐだけではなく、自ら学びを深め、独自のものを築きあげなくてはならない、と言えるでしょう。この言葉から、私自身の米国留学経験を思い出しました。

私が留学したのは、日本が経済成長のさなかで、GDPがヨーロッパ諸国を超えて、アメリカに次ぐ第2位となったころです。プラズマの研究で最先端を行く教授が日本に来られたときにお会いして、指導を仰ぐことにしたのです。大学院生になることができても博士候補生となるために、専攻で定められた基礎5科目について、筆記試験と口頭試問に合格しなければなりませんでした。その準備のために日本から多くの参考書を携えて行きました。しかし、それらは全くと言っていいほど役に立たなかったのです。持参した日本語の参考書は、日々進歩する学問の知識や内容に追いついていっておらず、時代遅れとなっていたからです。そのため、大学院の授業を取りながら、学部の授業も聴講して試験に備えました。

試験に合格して、プラズマの研究を始めると、世界的に有名な指導教授は海外出張が多く、ほとんど研究指導を受けられる時間がありませんでした。しかし、その結果、教授の問題提起を受けて、自ら考え理論を組み立てたからこそ、博士論文に繋がっていったと思います。指導を受ける機会が少なかった分、自分で論文を読み、学んだものでした。博士候補生になるための試験も厳しかったのですが、論文審査を含む最終試験も、相当に厳しいものでした。

博士号取得後、カナダでの研究生活を経て、アメリカの大学に戻り教育研究に携わることになりました。学科の必修科目は何でも教えることが要求されたので、教育の分野においても自分の専門であるプラズマを超えて広がっていきました。

学生は授業の前に教科書を読み事前に予習をしてくるので、授業においては教科書の内容を繰り返す必要はありません。教科書を「爺銭」とするならば、学問の進展を教師も学び、教壇に立って教科書を超えた新しい学問の展開を話すことになります。それが「爺銭を使わず」ということなのでしょう。従って、授業は教師の一方的な講義でも、単なる質疑応答でもなく、意見交換の場となるのです。教師と学生の相互作用が、授業の在り方を決めていきます。中部大学の学生が米国短期留学から帰ってくると、大きな刺激を受けたと言うのは、こうした授業展開によって、学びというものを自分のものにするすべを身に着けたからではないでしょうか。

日本とアメリカの大学の違いを理解するためには、大学の成り立ちを振り返ってみる必要がありそうです。(続)