学長ブログ

2017年9月の記事

16. ベーゼンドルファー

中部大学には宝物がいっぱいある。その一つは間違いなく、ベーゼンドルファーでしょう。

第83回中部大学キャンパスコンサートが、9月16日に三浦幸平メモリアルホールで開催されました。今年2月にもこのステージで開かれた「百々あずさ ソプラノリサイタル」で、ピアニスト水村さおりのピアノ演奏を聴く機会があったのですが、今回は本学の教員でもある水村先生がキャンパスコンサートアドバイザーとして、春日井市が生んだ若き新星24歳のピアニストを紹介してくださいました。

450人の観客を集めたホールは、「演奏会の雰囲気はお客さんと一緒に作るもの」という、水村先生の言葉通り、凛とした中に、親しみのある雰囲気となりました。特に地元出身で、この6月に英国王立音楽院を修了し、国際ピアノコンクールでいくつも賞をとっていることもあって、若きピアニストに対して、会場は特別の感情があったように思いました。私の席の後ろで、上品なご婦人方が話の中に、慧君と言っておられるのが聞こえていました。

ピアニスト内匠慧(たくみけい)は気品のある容姿とともに、話す中に隠れたユーモアが混じっていました。ベーゼンドルファーは味わい深い音色を出すけれど、大音量が出しにくい特徴があるのですよと話したあと、演奏が始まりました。エチュード「無秩序」から始まり、弾き終わって、水村先生の質問で、内匠さんは電子楽譜を使っていることが明かされ、音楽の世界にも新しい科学技術が取り入れられていることを感じました。リゲティ、ベートーヴェンなど、たっぷり2時間のすばらしいコンサートでした。

三浦幸平メモリアルホールは、初代学長三浦幸平先生の生誕100年を記念して建てられ、1992年5月13日に開館披露が行われ、披露の会のあとその場でピアノコンサートが開かれています。ホールは音響効果に注意が払われてコンサートに最適となるように作られており、その披露に合わせて、ベーゼンドルファー・インペリアルのお披露目が行われたわけです。

オーストリア・ウイーンで作られたピアノの名器ベーゼンドルファー・インペリアルですが、近づいてよく見ると驚いたことに「1991.6.22 Paul Badura-Skoda」のサインがありました。パウル・バドゥラ=スコダは現在90歳になるウイーン三羽烏の一人といわれるピアニストです。

1992年6月13日に第11回キャンパスコンサートが三浦幸平メモリアルホールで開かれ、それ以降ベーゼンドルファーが春日井市民、そして中部大学学生・教職員を楽しませてくれます。それから25年が経ち、第83回コンサートを聴きながら、名器ベーゼンドルファーが一流ピアニスト水村先生を本学に引き寄せ、さらに、世界で活躍する一流の音楽家たちとつながっていくのだなと、思いを巡らしていました。

中部大学には宝物がいっぱいある。
11,000人を超える学生と1,500人からなる教職員一人ひとりが、宝物であり、大事に大事にしたい存在だと、ベーゼンドルファーの響きを聴きながら考えました。

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三浦幸平メモリアルホールのベーゼンドルファー・インペリアル

15. 軍事研究

9月15日、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが、北海道襟裳岬東方の約2,200キロの太平洋上に落下したというニュースが飛び込んできました。その少し前には核開発に従事している科学者を、北朝鮮では英雄視していると伝えられました。

一方、日本では軍事技術に応用可能な研究に対する助成として、防衛省の外局である防衛装備庁が、110億円の予算で、14件の研究課題を採択したと発表しました(8月30日、中日新聞)。

さて、今日は軍事研究に関連して、横浜国立大学工学部の安全工学科を立ち上げた北川徹三先生の話をします。1960年代のこと、私はできたばかりの学科に入学し、北川先生から安全工学を学びました。先生は京都帝国大学大学院で原子物理学者、荒勝文策教授の元で、1937年まで学ばれました。当時の日本は、第1次世界大戦(1914-1918)の戦勝国として国際連盟の常任理事国でしたが、満州国建国(1932)を全加盟国から非難されたため、国際連盟を脱退(1933)し、日中戦争が起こり(1937)、第2次世界大戦(1939-1945)が始まろうとするころでした。

そのころアメリカではマンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾の開発が進んでいました。日本でも、ウランの分離による原子爆弾の研究に取り組んでいたのです。東京帝国大学を卒業して理化学研究所で研究していた仁科芳雄(1890-1951)が陸軍の研究に携わり、京都帝国大学を卒業した荒勝文策 (1890-1973)が海軍の命を受けて京都帝国大学の研究室を中心に、京都帝大の湯川秀樹(1907-1981)、名古屋帝大の坂田昌一(1911-1970)をはじめ大阪帝大、東北帝大の物理学者らとともに原爆開発にかかわっていました。

北川先生は京都帝国大学を出て、東京にある海軍の研究所で働いていました。そこで、1945年8月6日を迎えることになったのです。先生の働いていた研究所に海軍省から電話で、広島が特殊爆弾で被爆したとの知らせが来て、密命を受けて研究所から10人の調査団が広島に送られます。

調査団に加わった37歳の北川先生は、8月8日早朝には廃墟となった広島に入り、現地調査。翌日8月9日、同じような爆弾が長崎に投下されたことと、ソ連が対日宣戦を布告、満州に侵入という知らせが届きました。急遽、調査団の大部分が東京に戻ることになるも、北川先生は10日に広島で予定されていた陸海軍合同研究会に出席。研究会で、仁科芳雄博士、荒勝文策教授らとともに特殊爆弾は「原子爆弾ナリト認ム」と結論。この報告が終戦の判断に影響を与えたとされています。先生が東京に戻られてすぐに8月15日の終戦となりました。

調査団のことは、1986年に出版された「原子爆弾災害調査の思い出―一物理学者の見たもの」(篠原健一、Isotope News)に記述があります。そして2013年に出版された「証言録 海軍反省会」の中で、海軍の核兵器研究の項目に掲載されています。北川先生の名前は証言録の中で出てきます。三井再男海軍大佐の、被爆地調査についての証言の中に、

「今の水を飲むなという話ね、そういうことを言ってもらいたかったんです。安井(保門・兵51)さんと一緒に行った北川(徹三)という技術中佐も、それから早川(龍雄・技術中尉)もあれもみんな血尿が出ているんですよ、帰ってから。水を飲んでいるんです。放射能被害」

(原文のまま、安井とは当時、調査団の団長であった安井保門海軍大佐のことで、その団員の中に北川先生がいたということです。)

さらに、2015年に京都大学で、荒勝研究室に属していた研究者が残した研究ノートが見つかっています。終戦後、連合国総司令部が理研や京都帝大を捜索し、原爆開発の資料をほとんど持ち去り、歴史の検証ができない状態になっていたようです。

我々学生に対して、原爆のことについて語ることがなかった先生は、写真を含めた調査記録を鞄にひとまとめにして保存されていたそうです。先生は1983年、76歳で亡くなられました。息子さんが、北川先生の残されたものを広島のミュージアムに寄贈されています(中國新聞、2014年5月12日)。その中には広島で撮られたきのこ雲のオリジナルプリントもありました。晩年、北川先生が残された文章に、「私がいま一生を捧げて安全工学に専念する動機になったものは、この原爆調査ではなかっただろうか(中略)調査を体験した者の実感として、再びこのような惨害が繰り返されないように、世界の核軍備をもつ国の人々に訴えたいと思う」とあります。

あまりにも悲惨な広島の現実を、被爆直後に見ることになった数少ない日本人科学者の一人であった先生は、容易に言葉に出せるものではなかったのでしょう。私をはじめクラスのものはだれ一人、先生から直接原爆の話を聞くことはありませんでした。ただ安全工学の考え方を我々に教えることで、科学技術は人類のためのものである、ということを強調されていたのでしょう。高度経済成長という名前に隠れて、経済最優先の社会で進む環境汚染・環境破壊に警鐘をならしておられたのかもしれません。

アメリカの原爆開発は原爆の父といわれたロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主導者として、その下にはのちに水爆の父といわれたエドワード・テラー(1908-2003)をはじめ、ヨーロッパから亡命してきた多くの物理学者がいました。日本でも、陸軍・海軍のもとで日本を代表する物理学者、仁科芳雄(クラインー仁科の散乱断面積公式、1946年文化勲章)、荒勝文策 (原子核人工変換実験、1961年紫綬褒章)、湯川秀樹(中間子理論、1949年ノーベル賞)、坂田昌一(素粒子の坂田模型、1950年恩賜賞)らが原爆開発にかかわってきたのです。

中部大学では2016年4月に、本学の研究者は戦争を目的とする科学研究は行わないとする申し合わせ事項を決めています。また、日本学術会議は今年4月、大学での軍事的研究を問題視し、防衛装備庁の研究助成制度について、政府による介入が著しく、問題が多いと指摘しています。

14. 夏の終わり(2) 竜巻

ドロシーは犬のトトと一緒に不思議の国オズにいき、そこで魔法使いと出会います。「オズの魔法使い」で、ドロシーとトトを不思議の国に連れて行ったのは竜巻でした。今日は夏の報告とともに竜巻の話題です。

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8月7日立秋の日に、台風5号によって、大荒れの天気となった東海地方(天気図[1])。愛知県では午前11時から午後10時まで、5度にわたって竜巻注意情報が出され、春日井市では一日中断続的に、雷注意報がでていました。午後4時半ごろ、豊橋で竜巻被害が伝えられました。春日井では、夕方雷と稲妻がひどくて、慌ててコンピュータの電源を落としたら、その後再起動時にエラーが出て、コンピュータをもとの状態に戻すのに、大変な時間を使う羽目になりました。

8月9~11日はオープンキャンパス。11日は雨に降られましたが、それでも3日間で9300人来学(写真)。入学センターが中心になって、教員、職員と学生、そして中部大学マスコットのちゅとらがおもてなし。まさに中部大学ファミリーが総出で高校生を歓迎している気がしました。

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高校生が熱心に聞き入る模擬講義。オープンキャンパスでは、ちゅとらが大活躍。

8月18日。真夜中近い23時35分。スマホに緊急警報の知らせ。避難勧告。この日春日井市は朝から不安定な天気で、怪しげな空模様と大雨が続く。豪雨となり、東濃地方で庄内川の上流にある土岐川の水量が増え、庄内川が増水して氾濫寸前までいきました。情報に気を付けながらも、日付変わって午前0時40分、大雨警報・洪水警報と春日井市の一大事が続く。ようやくすべての勧告、警報が解除されたのは19日午前4時32分。18日0時から19日午前4時までの28時間に、春日井市近辺で雨量は200ミリを超えたそうです。日本海および日本列島の東にある低気圧に向かって南から暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定となり豪雨がもたらされたのです(天気図[2])。愛知県西部では午前中に一度竜巻注意情報が出て、その後午後8時半以降真夜中まで何度も竜巻注意情報が出されていました。

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この夏日本中、豪雨に見舞われるところが多く発生しました。ところによっては竜巻も発生しています。どうして日本でも竜巻が発生するのだろうかと思って、ここでテキサスの竜巻の話をすることにします。私の住んでいた地域は、竜巻でよく知られていたのです。

まず私がスケッチしたアメリカの地図を見てください。アメリカは面積が日本の25倍あり、南部にあるテキサス州だけでも日本の1.8倍あります。アメリカ大陸は海に囲まれています。西に太平洋、東に大西洋、南にメキシコ湾があり、そして北には北極海があります。大陸の中では海岸沿いに南北に延びる二つの大きな山脈によって特徴付けられています。西にロッキー山脈、そして東にアパラチア山脈です(図)。南北に位置するメキシコ湾と北極海、そして二つの山脈が竜巻発生に大きな役割をしています。竜巻発生はロッキー山脈の東、アパラチア山脈の西側に集中しています。

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私が住んでいた西テキサスにあるラボック市は、春になると必ず短時間の豪雨を伴った竜巻に襲われていました。竜巻街道(Tornado Alley)と呼ばれるところに位置しているのです。1970年5月には、市が壊滅的な打撃を受けています。竜巻が市の中心部をなめるように移動して壊滅させたのです。竜巻スケールはF5(住家は跡形もなく吹き飛ばされ、自動車、列車などがもち上げられて飛行する)だったそうです。竜巻の規模を表すために発生した被害の状況からFスケールが使われます。気象庁によると日本ではこれまでにF4(住家がバラバラになって辺りに飛散し、列車が吹き飛ばされる)以上は観測されていないということです。

その後レーダーを使って雨雲の動きを観測することができるようになり、竜巻予報が出るようになっていました。テレビ画面の左下コーナーに小さな記号が現れるのです(図)。雨雲が現れて、猛烈な雨と雷を伴う嵐が来るときは黒雲の下に稲妻のマークがでて、雷を伴う嵐(severe thunderstorm)に注意。そして竜巻が起こる条件がそろった場合には、竜巻マークが現れます。白塗りの竜巻印は竜巻注意報で、竜巻印が真っ黒になると竜巻警報です。警報が出ると、もうどこかに身を隠さなければなりません。外にいるときに突然黒雲が現れて、辺りが暗くなり、黒というより、恐ろしくて汚い緑色を帯びたような黒雲が見えたら、竜巻が空から下がってきて地上に到達(タッチダウン)する可能性大です。

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春になると、メキシコ湾で暖められた湿った空気がロッキー山脈に沿って北上し、一方北極海からカナダを通って、ロッキー山脈に沿って南下してくる冷たく乾いた空気とぶつかり合うのが、我々の住む西テキサスのあたりだったのです。竜巻の発生メカニズムはまだ完全には解明できていない状況ですが、テキサス工科大学で行った講義で使った図を使って、豪雨を伴った竜巻が生まれる様子を説明してみます。

湿った暖かい空気が、乾いた冷たい空気とぶつかり合うところで、湿った暖かい空気が急激に上昇することにより、温度の低下が起こり雲ができ、発達した雲は短時間で巨大な積乱雲となります(図参照)。積乱雲のてっぺんは上空20kmにも達することがあります。通常の雨雲は数百メートルですから、その高さはとてつもないものです。そして雲の中で、風が一様でなく吹いていると、回転を始めることがあり、地上では上昇した分の空気を補うように周辺から空気が吸い上げられていきます。スーパーセルと呼ばれる特別大きな積乱雲の中では、上下の風向差が円筒状の渦を作りだし、細長い風の渦が上昇気流によって不安定となり、細長い円筒が折れて、円筒の先端が漏斗状になって地面に向かって伸びて来ることがあります。いわゆるタッチダウンによって、地上の家や自動車までもが吸い上げられていくことがあるのです。ピンポイントで、狙ったものだけが吸い上げられていくようで、ここにオズの魔法使いの話ができる素地があります。

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ここで、春日井市の夏に話を戻します。8月7日、台風接近時15時の天気図と、18日15時の天気図を、再び見てみましょう。アメリカ大陸で起こるような竜巻が発生する条件が整ったのでしょうか。

7日は日本の南にある台風が、暖かくて湿った空気を北に向かって運んできて、北海道の東にある乾いた冷たい空気を含んだ低気圧とぶつかりそうな気配です。18日15時の天気図によれば、やはり、日本の南にある湿った暖かい空気が、日本海および日本列島東に位置する乾いた冷たい空気を運ぶ低気圧とぶつかりそうです。7日、18日とも空気の流れが、日本列島に沿って、南から暖かく湿った空気、北から冷たく乾いた空気のぶつかり合いとなっているように思えます。まさにアメリカ大陸でいつも春先に起こっていたような竜巻現象が起こる条件が作られているようです。そうすると日本列島自身が、まるでアメリカ大陸におけるロッキー山脈のような働きをして、日本列島に沿って南から来る湿った暖かい空気と、北から降りてくる乾いた冷たい空気がぶつかり、その結果日本列島の海岸沿いが竜巻に襲われたのかもしれません。もし湿った暖かい空気と、乾いた冷たい空気が日本列島の西側でぶつかれば、日本列島の西側海岸沿いに竜巻は、同じように起こるかもしれません。

地球温暖化に伴って起こる、太平洋海域の温度上昇は、暖かく湿った空気を大量に作り出し、これまで起こっていた自然現象を、とてつもないスケールに広げているように感じるところです。

追記:このブログを書いてから、アメリカでもこれまでにないハリケーンが大きな被害をもたらしていたのでここに付け加えておきます。8月27日、ハリケーン「ハービー」はテキサス州を襲い、ヒューストン周辺では24時間に610ミリの雨を降らせ、ヒューストンの大半を水に浸からせるという未曾有の洪水を引き起こし、米史上で最も経済被害が大きいハリケーンの一つといわれています。しかし9月10日にフロリダ州を襲ったハリケーン「イルマ」は、ハービーを上回り、複数の都市で洪水、大規模な停電を引き起こしていると伝えられています。

13. 夏の終わり(1) 白内障

久しぶりに書きだします。
8月の初めに左目の白内障の手術をして、日帰り手術でしたが、その後今に至るまで、一日4回の目薬を差すことになり、ゆっくりとモノを書く心のゆとりがなくなっていたのです。白内障手術ではレンズの役割をする濁った水晶体を取り出して、人工レンズを入れてもらいました。新しく入った左目の人工レンズは遠くに焦点が合うようになり、眼鏡なしで人の顔がはっきり見えるようになりました(写真)。遠くから人の目元がはっきり見えるのは感激でした。これまではそこまではっきりと見えていなかったことに気がつきました。ところが術後、日が経つにつれて、右左の視力の差から、疲れやすくなり、一日の終わりにはぐったりとしてしまうのです。今のところ眼鏡なしで、遠くは左目で、近くは右目で見るというところです。これまでは左目は眼鏡でも視力調整に限界があったわけです。これは視力が落ち着いた2か月後に眼鏡を作ることにより調整できることを期待しています。

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夏を振り返ってみるところからブログ再開です。今回は夏の近況報告です。

7月の後半はまるまる4日かけて、7つの学部と6つの大学院研究科の正副学部長・研究科長、学部事務長と学長・副学長との個別面接を実施、各部署の現状と今後についての議論。特に予算が関わるところを中心に新規事業について意見交換です。

7月31日。特に教育面で顕著な活躍をした教員の教育活動顕彰授賞式。17人に教育活動優秀賞、そして3年間を通じて学生の授業評価等で優れた評価を得た1人と、5年間スポーツ顧問・監督として学生指導に取り組み成果を上げた1人に特別賞を授与しました(写真)。専任・非常勤教員1006人の中から、厳しい審査を経て選ばれた先生方は中部大学の教育者としての手本となります。

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8月3日、学校法人中部大学の併設中学校と二つの高校の運営に関わる先生方と、大学側から関係者が集まっての研修会を開きました。10時間かけて、中学・高校の現状分析と今後の教育方針についての議論をしました。それぞれの学校に中部大学の冠がついて2年目となります。つまり、「中部大学第一高等学校」、「中部大学春日丘中学校・高等学校」と名称変更することによって、呼び名が変わっただけですが、この研修会を通して中部大学ファミリーの結びつきがより強まったように感じるところです。

8月5日は大学内の三浦幸平メモリアルホールで、中部大学学長杯争奪LEGOロボットコンテスト。これは小中高生を対象にしたもので、自律型ロボットによる国際ロボットコンテストの国内予選会を兼ねています。小学生、中学生、高校生が東海地区から集まり、会場は熱気に包まれていました(写真)。工学部で3年前に設立されたロボット理工学科の学生・教員・職員が中心になって、また来年4月設置の宇宙航空理工学科の先生方・事務職員の協力も得て運営が行われました。

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