学長ブログ

2017年7月の記事

12. 爛柯軒(らんかけん)

訪問客があり、緑の多いキャンパスを案内しました。時間がなかったので、目指すは洞雲亭と爛柯軒です。

1号館から出発。正門を背後に講義棟9号館を前に見る時計塔のある空間に出ます。ここは正門からまっすぐに伸びてキャンパスを縦断するメインプロムナードに位置します。

正門から緩やかな坂道の両側には、春日井市の制定した市の木でもあるケヤキ並木が続いて、上り坂の左手に緑に覆われた創立者胸像の庭、右手は1号館前の庭園です。

上りきったところに時計塔があり、右手に1号館、左手には緑の芝生が広がり、現代教育学部のある70号館まで200メートルにわたるグリーンゾーンがあり、ここも両側にはケヤキ並木が続いています。

芝生の中ほどにはロタンダと呼ばれる白いドーム型の建造物がありますが、これは今から23年前、姉妹校オハイオ大学から、中部大学開学30周年と姉妹校提携20周年を祝って寄贈されたものです。雰囲気を伝えるために大学案内で見つけた、パノラマ写真をつけておきます。

メインプロムナードの正面に立つ白亜の講義棟9号館1階右側ピロティでは、テーブルを囲んで学生が談笑しています。9号館の吹き抜けをくぐり、キャンパスプラザを右手に、第一学生ホールを左手に見ながら客人と二人、歩を進めます。 

不言実行館の前を通り過ぎて、講義棟10号館と国際関係学部20号館をつなぐ渡り廊下をくぐると、緑がさらに増えて、池が見えてきます。メインプロムナードはここで、ゆるくカーブし、左手奥に体育館を見て、さらに生命健康科学部の建物に向かって歩くと、人文学部の前に、がらりと趣の違う茅葺(かやぶき)の小さな屋根がついた門に到着です。そこには
工法庵 洞雲亭と書いた小さな石碑が立っていて、私たち二人は、頭をかがめて中に入りました。

客人はキャンパスの中に、こんなにも静寂な池と緑の豊富な空間があることにまず驚かれます。書院・洞雲亭(どううんてい)に入り、土間で靴を脱いで上がると、まず目に留まるのが机の上に置かれた芳名帳です。2年前に作家曽野綾子氏も訪れて、署名を残しています。中部大学のキャンパスを「濃尾平野の天香具山」(Voice 2015年8月号)と絶賛してくださり、「この酸素発生器の様な森で4年間を過ごせる学生たちは幸せ」と彼女が書いていたことを思い出しました。

洞雲亭の室内を進むと、奥に茶室工法庵(くほうあん)があります。千利休(せんのりきゅう)の茶室を再現したという小さな部屋は、実に不思議な、心の落ち着く哲学的な空間です。

今度は庭に出て、洞雲亭の裏手にある爛柯軒を訪れました。爛柯軒―ちょっと変わった名前は中国の故事からつけられた名前です。木こりが森の中で、仙人の子供が碁を打っているのを見ていて、すっかり夢中になり気が付いた時には、時間が経っていて、立てかけておいた斧の柯(え、柄のこと)が、爛(らん、朽ちること)となってしまっていたという中国の話。

古今集で紀友則が

「ふるさとは 見しことあらず 斧の柄の 朽ちし所ぞ 恋しかりける」

と詠んでいます。戻ってきた故郷は京で、斧の柄が朽ちるほど碁に熱中した所は九州の筑紫です。筑紫に行って、帰ってきたときには、ほんの少し離れていた京が、すっかり変わってしまっていた、というのです。

阪神大震災の1995年に作られたこの茶席は開放的な雰囲気をもつもので、なかには中部大学の基本理念「不言実行」の文字があります。当時の大学新聞「中部大学通信」に載った記事と、最近の私がとった写真をつけておきます。爛柯軒は時のたつのも忘れるほど勉学に夢中になってもらいたい、という願いを込めて茶室につけられた名前です。

工法庵、洞雲亭、爛柯軒を見て、私は客人と1号館に戻ることになりました。


〔参考〕工法庵・洞雲亭について

工法庵は建築学科伊藤平左エ門教授が学生参加の研究制作活動として、提案してできたものです。江戸時代の大工技術書「数寄屋工法集」の「利休囲」に記された寸法に基づき、草庵茶室を完成させたものであり、考証復原研究の成果であったといえます。1987年に中部大学の特定研究と指定され、この取り組みは1990年に完了。その年はちょうど千利休の400回忌に当たっていました。

洞雲亭は小豆島で真言宗洞雲山観音寺の庫裏として1812年に建てられたもので、中部大学が伊藤教授を通じて寄贈されたものです。移築場所の選定に当たっては、20号館裏の池の北側にあった南下がりの空き地が選ばれ、そこにある桜の大樹は今も春になると満開となります。移築作業の取り組みは1986年1月から始まり、工学部建築学科の教授陣と学生によるところが大きく、移築修復をして、1991年に書院として完成したものということです。

洞雲亭の修理にあたって、蟻害と腐朽がひどいところには、新材の混用を避け、ちょうど靖国神社本殿解体修理で出ていた、約百年経過の解体廃材を譲り受けて充当したということです。書院完成後の庭園デザインは本学の非常勤講師である造園家の協力を得て完成したということです。池の中央には瞑想を誘う噴水が静なる日本庭園に「動き」を添えています。〔出典:中部大学通信「洞雲亭縁起」(1991年発行)〕

200メートルにわたって広がるグリーンゾーン。両側はケヤキ並木。芝生の中ほどにはロタンダと呼ばれる白いドーム型の建造物。
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噴水の背後に瓦屋根が見える春の洞雲亭(大学案内より)。右の写真は春、筆者撮影。
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古建築の書院・洞雲亭。小豆島の洞雲山観音寺の庫裏(1812年建立)を移築修復したもの。
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茶室「工法庵」は、江戸時代の大工技術書「数寄屋工法集」の「利休囲」に記された寸法に基づき、1990年に本学教授が復元した茶室。右に書院が続いている。
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洞雲亭修復の際の補足材を利用して作られた、もうひとつの茶室・爛柯軒。
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1996年2月中部大学通信に掲載された爛柯軒。
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11. 風 テキサスを思う

朝日新聞のコラム「風」にアメリカ総局長の記事が掲載されました。彼は4年の任期を終えてプリンストンを後にするところでこの記事を書き、その中で、1960年代に書かれた江藤淳の「アメリカと私」(文春文庫)の一節を紹介しています。「外国暮しの『安全圏』も1年までだね。1年だとすぐもとの生活に戻れるが、2年いると自分の中のなにかが確実に変ってしまう」―日本から米国に帰国したばかりの米国人の友人が、江藤氏に漏らした言葉というのです。

2年の米国暮らしの後、江藤氏は自分の内面が変わったと感じています。そして、アメリカ総局長である山脇岳志氏は7年半の米国生活を経験して、『安全圏』が1年なら、相当な『危険域』なのだろうかと顧みることになります。米国にも日本に対しても、共感と違和感が入り交じってしまう、と感じているのです。

これを読んで、自分のことを振り返ってみました。1970年代に留学生として渡米、その後カナダの大学に職を得て、さらにアメリカの大学に移り、帰国するまで、アメリカ大陸には25年住んでいたことになります。1年が『安全圏』というなら、この年月は『危険域』どころではないのだろうか。いやあるいは、そういう言葉で区別するものを超えたものであるのかもしれません。

帰国してから、最初の数年は頻繁に米国に戻っていました。IEEEという学会の運営に関わっていたからです。大きな手提げかばん一つを持って、往復を繰り返しました。帽子と手提げかばん一つの姿で旅をするのは、「男はつらいよ」の寅さんのようだと、言われたことがあります。自由に生きる寅さんが好きだったのでうれしく思ったものです。ある時、成田空港で日本人の列に交じって搭乗を待っているとき、空港職員が一人一人の乗客に順番に声をかけて何かを聞いていました。それが私のところに来ると、いきなり英語で話しかけてきたことがあるのでびっくり、後から思うと、顔つきや振る舞いまで、列の中にいる日本人とは別の雰囲気を醸し出していたのかもしれません。

それからしばらくして、私は日本の大学運営や学会活動に、より関わるようになり、アメリカに戻る回数も少なくなっていきました。今では、顔つきや振る舞いも、アメリカ時代にはやし始めたひげ面をのぞいては、かなり普通の日本人になったようです。江藤氏の時代でも、アメリカは移民を受け入れるのに対して、日本は外国人をずっと別扱いする国であり、半世紀後の今も、日本では、移民も難民も少数しか受け入れていない、と山脇氏は指摘しています。確かに、日本では昨年の難民認定の申請は1万人を超えましたが、政府が認めたのは、28人ということです。アメリカ・カナダでは難民認定率が60%以上という。一方で、外国に出る日本人の数は圧倒的に増え(1964年13万人、2016年には1700万人)、外国から日本を訪れる外国人の数も圧倒的に増えています(1964年35万人、2016年2400万人:日本政府観光局訪日外客数、出国日本人数の推移より)。在留外国人は1965年の時点では約60万人だったのが、2016年末で238万人(永住者は73万人)と過去最高ということです。日本の社会が多様な人々からなる社会へと徐々に移っていることも事実です。

同じアメリカ大陸でもカナダとアメリカでは、考え方が違っていました。アメリカは一度でも足を踏み入れた者をアメリカ人としてしまうのに対して、カナダでは移民のふるさとを大事にして育てていくように思えます。アメリカのことを人種のるつぼと言い、カナダのことを人種のモザイクと表現されることがありますが、その通りだと思います。特に、1985年以降、私が住んでいたテキサスでは、50州あるうちで唯一独立国家としての歴史を持ち、州旗として孤高の星 (Lone Star)を掲げ、自分たちがアメリカを支えていると思っているようでした。すべての人が、「liberty and justice for all」(すべての人のために自由と正義を)で終わるPledge of Allegiance(忠誠の誓い)を尊重していて、新大陸で自由な理想の国を目指して築きあげた、自分たちが世界一であると言う感覚が大きかったように思えます。私が接したテキサスの人は、すべての思考が前向きで明るく、私が学問を進めていくにしても、我々が子供を育てていくにも、それは心地いい環境でした。ファーストネームで呼び合って、職場としての大学でも、地域でも、仲間意識と助け合いの精神があり、個と個のつながりを感じるものでした。

最近のトランプ大統領に関する世論の動きとニュースを見ていて、私が米国に留学したころのことを思い出しました。アメリカでは、ウォーターゲート事件が問題になっており、渡米後1ヶ月の時に、ニクソン大統領の辞任演説をテレビで見ました。それから2年後、今度はロッキード事件で田中角栄首相が逮捕されたことがアメリカでも報道されました。そのとき、アメリカ人の友人が言った言葉は印象的です。「アメリカでは大統領を逮捕できなかったのに、日本では首相の逮捕まで行った。日本の民主主義はアメリカを追い越した。」

日米はじめ、世界中で必ずしも民主主義は成熟してきているとは言えないようです。ゆり戻しが進行しているのかもしれません。さらに、グローバル化が経済と結びついて推進されるとき、世界中で格差はより広がって、いろいろな形で、世界の不安定を引き起こしているように思えます。

いろいろな変革が求められているときには、人生のある期間を外国で過ごした者にも活躍できる場があるのかもしれません。これまでの制度に行き詰まりを感じ、新しい息吹を取り入れようとするとき、これまでの認識を見直して相対的に考え、国境という心の壁を乗り越えて、別の見方をすることが出来るかもしれません。

そう考えながら、日本の教育に、中部大学から新たな風を吹かせることができればと思っています。

全米2位の面積を持つTTU(テキサステック)構内にて、学生とともに1987年撮影。
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正門は大きな石が目印で、門はなく、手前の道を隔ててダウンタウンが広がる。
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TTUの建物はスペインルネッサンス風で統一されている。
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学会では、背が高い僕の学生Eddie(写真右)と、どちらが学生かとまちがわれたものです(1986年)。
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