学長ブログ

15. 軍事研究

9月15日、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが、北海道襟裳岬東方の約2,200キロの太平洋上に落下したというニュースが飛び込んできました。その少し前には核開発に従事している科学者を、北朝鮮では英雄視していると伝えられました。

一方、日本では軍事技術に応用可能な研究に対する助成として、防衛省の外局である防衛装備庁が、110億円の予算で、14件の研究課題を採択したと発表しました(8月30日、中日新聞)。

さて、今日は軍事研究に関連して、横浜国立大学工学部の安全工学科を立ち上げた北川徹三先生の話をします。1960年代のこと、私はできたばかりの学科に入学し、北川先生から安全工学を学びました。先生は京都帝国大学大学院で原子物理学者、荒勝文策教授の元で、1937年まで学ばれました。当時の日本は、第1次世界大戦(1914-1918)の戦勝国として国際連盟の常任理事国でしたが、満州国建国(1932)を全加盟国から非難されたため、国際連盟を脱退(1933)し、日中戦争が起こり(1937)、第2次世界大戦(1939-1945)が始まろうとするころでした。

そのころアメリカではマンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾の開発が進んでいました。日本でも、ウランの分離による原子爆弾の研究に取り組んでいたのです。東京帝国大学を卒業して理化学研究所で研究していた仁科芳雄(1890-1951)が陸軍の研究に携わり、京都帝国大学を卒業した荒勝文策 (1890-1973)が海軍の命を受けて京都帝国大学の研究室を中心に、京都帝大の湯川秀樹(1907-1981)、名古屋帝大の坂田昌一(1911-1970)をはじめ大阪帝大、東北帝大の物理学者らとともに原爆開発にかかわっていました。

北川先生は京都帝国大学を出て、東京にある海軍の研究所で働いていました。そこで、1945年8月6日を迎えることになったのです。先生の働いていた研究所に海軍省から電話で、広島が特殊爆弾で被爆したとの知らせが来て、密命を受けて研究所から10人の調査団が広島に送られます。

調査団に加わった37歳の北川先生は、8月8日早朝には廃墟となった広島に入り、現地調査。翌日8月9日、同じような爆弾が長崎に投下されたことと、ソ連が対日宣戦を布告、満州に侵入という知らせが届きました。急遽、調査団の大部分が東京に戻ることになるも、北川先生は10日に広島で予定されていた陸海軍合同研究会に出席。研究会で、仁科芳雄博士、荒勝文策教授らとともに特殊爆弾は「原子爆弾ナリト認ム」と結論。この報告が終戦の判断に影響を与えたとされています。先生が東京に戻られてすぐに8月15日の終戦となりました。

調査団のことは、1986年に出版された「原子爆弾災害調査の思い出―一物理学者の見たもの」(篠原健一、Isotope News)に記述があります。そして2013年に出版された「証言録 海軍反省会」の中で、海軍の核兵器研究の項目に掲載されています。北川先生の名前は証言録の中で出てきます。三井再男海軍大佐の、被爆地調査についての証言の中に、

「今の水を飲むなという話ね、そういうことを言ってもらいたかったんです。安井(保門・兵51)さんと一緒に行った北川(徹三)という技術中佐も、それから早川(龍雄・技術中尉)もあれもみんな血尿が出ているんですよ、帰ってから。水を飲んでいるんです。放射能被害」

(原文のまま、安井とは当時、調査団の団長であった安井保門海軍大佐のことで、その団員の中に北川先生がいたということです。)

さらに、2015年に京都大学で、荒勝研究室に属していた研究者が残した研究ノートが見つかっています。終戦後、連合国総司令部が理研や京都帝大を捜索し、原爆開発の資料をほとんど持ち去り、歴史の検証ができない状態になっていたようです。

我々学生に対して、原爆のことについて語ることがなかった先生は、写真を含めた調査記録を鞄にひとまとめにして保存されていたそうです。先生は1983年、76歳で亡くなられました。息子さんが、北川先生の残されたものを広島のミュージアムに寄贈されています(中國新聞、2014年5月12日)。その中には広島で撮られたきのこ雲のオリジナルプリントもありました。晩年、北川先生が残された文章に、「私がいま一生を捧げて安全工学に専念する動機になったものは、この原爆調査ではなかっただろうか(中略)調査を体験した者の実感として、再びこのような惨害が繰り返されないように、世界の核軍備をもつ国の人々に訴えたいと思う」とあります。

あまりにも悲惨な広島の現実を、被爆直後に見ることになった数少ない日本人科学者の一人であった先生は、容易に言葉に出せるものではなかったのでしょう。私をはじめクラスのものはだれ一人、先生から直接原爆の話を聞くことはありませんでした。ただ安全工学の考え方を我々に教えることで、科学技術は人類のためのものである、ということを強調されていたのでしょう。高度経済成長という名前に隠れて、経済最優先の社会で進む環境汚染・環境破壊に警鐘をならしておられたのかもしれません。

アメリカの原爆開発は原爆の父といわれたロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主導者として、その下にはのちに水爆の父といわれたエドワード・テラー(1908-2003)をはじめ、ヨーロッパから亡命してきた多くの物理学者がいました。日本でも、陸軍・海軍のもとで日本を代表する物理学者、仁科芳雄(クラインー仁科の散乱断面積公式、1946年文化勲章)、荒勝文策 (原子核人工変換実験、1961年紫綬褒章)、湯川秀樹(中間子理論、1949年ノーベル賞)、坂田昌一(素粒子の坂田模型、1950年恩賜賞)らが原爆開発にかかわってきたのです。

中部大学では2016年4月に、本学の研究者は戦争を目的とする科学研究は行わないとする申し合わせ事項を決めています。また、日本学術会議は今年4月、大学での軍事的研究を問題視し、防衛装備庁の研究助成制度について、政府による介入が著しく、問題が多いと指摘しています。