学長ブログ

2020年8月の記事

97. 春日井にある芭蕉の句碑

「来与(いざとも)に穂麦喰らわん草枕」 

松尾芭蕉が1685年の初夏に春日井で一晩の宿を借りたときの句であると、県道名古屋犬山線(上街道)沿いの正念寺の門前に記されています。宿の主が芭蕉に旅の疲れをねぎらって、まだ熟さない麦の実を石臼で引いて振る舞ったというのです。この句によって麦穂坂と呼ばれるようになったという街道の坂道に、その碑を見つけました(写真)。

「荒海や佐渡によこたふ天河」 

数年後、芭蕉の「おくの細道」に記されている七夕の句とされる、天の川の描写です。旧暦の7月7日、七夕に当たるのは明日。

中国から伝わった七夕物語はすっかり日本に定着しました。天の川をはさんで光る織り姫(こと座の一等星のベガ)と彦星(わし座の一等星アルタイル)が、1年に一度しか会えない七夕の日には晴れることを祈ります。

アラビア語でベガは「急降下する鷲」を意味し、アルタイルは「飛ぶ鷲」を意味します。ベガは琴座の中にある隣の二つの星とともにΛの形をして、鷲が翼をたたんで落ちてゆく姿に見えます。わし座のアルタイルを中心とする星の集まりは、全体が大きく翼を広げた鷲のように見えます。七夕伝説と同様に、ここでもこの二つの一等星は一対と見られていたことが想像できます。ギリシャ神話ではベガは竪琴を飾る宝石で、わし座の鷲はゼウスの使いです。

春日井を訪れた俳聖を思う時、イギリスで感染症から逃れて家に閉じこもっていた芭蕉と二つ違いのニュートンを思い出しました。「アンヌス・ミラビリス」(ブログNo.64)を書いてから、5カ月。コロナは収まる気配はなく、これまでに世界中で2,300万人が感染し死者は80万人を超え、日本でも6万人が感染し死者は千人を超えています。七夕の日にあって、再びキャンパスにみんなが自由に入ってきて、集い楽しく学ぶことができる、そんな当たり前の日が早く戻ってくることを祈ります。

「一万人キャンパスの待つ秋学期」

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名鉄小牧線春日井駅の近くにある正念寺の門前に立つ芭蕉句碑と札

96. ペルセウス座流星群

毎年8月になると、流星群が話題になります。できるだけ暗い所を探して、夜空を仰いでみることにしました。庄内川の土手に寝転がって夜が更けるのを待ちました。結局市街地の明るさ故、並んだ木星と土星、さらに火星、それに夏の大3角形が見える程度で、流れ星を見ることができませんでした。次の日は北に向かって、より明かりの少ないところを求めて、車を走らせました。今度は天の川にある白鳥座とカシオペアまでは見えましたが、やはり街の明かりが邪魔して、天の川に沿って続くペルセウスは確認できず、流星群を見ることはできませんでした。数年前に訪れた日本一星がきれいなところとして知られる長野県の阿智村では、流星がはっきりと観測されたそうです。

太陽のまわりを130年の周期で回るスイフトータットル彗星は、その軌道に沿ってダスト(塵)を残しています。そのダストが密集する宇宙空間を地球が通る時、ダストは地球に向かって落下する時に発光し、流星群として見ることができるのです。その方向に星座ペルセウスが有ることから流星群はその星座の名前を冠しています。流星群はペルセウス座の放射点を中心に、放射状に広がるのを見ることができます。プラズマ物理の研究では、プラズマ中にダスト(微粒子)を注入して、ダストとプラズマの相互作用を調べたりしますが、宇宙のダスト(宇宙塵)は地球に突入する時に、プラズマ状態にある電離層を通り、大気中の原子・分子と衝突して光が出ることによってその存在を見ることができます。

ギリシャ神話では大神ゼウスが、人間の美しい娘ダナエに、黄金の雨となって近づき、その後英雄として活躍することになるペルセウスの誕生に繋がったと伝えられています。流星群は黄金の雨を思い出させるというのです。

今回は流星群に巡り合わなかったのですが、夜空を眺めていると、星座にまつわるギリシャ神話を思い、宇宙に吸い込まれていく楽しさを感じます。まだ猛暑が続いていますが、夜空では夏の星座から、ペガサスに代表される秋の星座が登場してきています。ペルセウスが怪物メドゥーサの首を切り落としたときに、その血の中から、生まれてきたのが空飛ぶ天馬ペガサスだと言われています。物語は秋の星座へと繋がっていきます。
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全天星座表に惑星と月の位置を加えて、観測時間における空(青の楕円)を確認して、ペルセウス流星群の観測を期待しました。

95. 戦後75年 謝罪

広島生まれの女優綾瀬はるかさんが、これまで戦争体験者に耳を傾けてきて、今回は高校生と対談するテレビ番組がありました。その中で戦後60年経って広島を訪れた、原爆製造にかかわったアメリカ人科学者と、被爆者の対話の様子が紹介されていました。被爆者に謝罪を求められた科学者は「私は謝罪しない」と言っていたことが印象に残りました。

アメリカの大学に勤めていた私は日本人教授ということで複数のテレビ局にインタビューされたことがあります。アメリカでは12月7日のころになると特集が組まれていました。真珠湾攻撃から50年に合わせて、二つのテレビ局は私とキャスターとのやり取りを放映し、内容は日米が歩んできた友好の道に焦点を合わせたものでした。一方、もう一つのテレビ局は、私のインタビューと、真珠湾爆撃を生き残った元兵士のインタビューをつなぎ、元兵士の「日本は真珠湾攻撃に対して謝罪すべきだ」というところと、私のインタビューの一部を切り取って「私は謝罪しない」の部分だけを放映していました。

報道の仕方でこれほど印象の違う伝え方ができるものかと、恐ろしく思ったことを覚えています。同じ太平洋戦争でも、日本は終戦の日である8月15日を大きく取り上げ、アメリカでは真珠湾攻撃の12月7日(日本時間の12月8日)を大きく取り上げます。

広島出身の私の母は、台所の窓からピカッと光る原爆を見たそうです。母は原爆については多くを語りませんでした。日米にかかわらず、戦争で大事な人を無くした人の深い悲しみは、言葉では表せないことでしょう。

太平洋戦争が始まると共に、米国ではオークリッジと、ロスアラモスの国立研究所で原爆開発が行われました。同じ頃、日本でも陸軍では理化学研究所(仁科芳雄博士)を中心に、そして海軍では京都帝国大学(荒勝文策博士)を中心に原子爆弾の開発が進められていました。原爆の被爆者が出るのは日米いずれの可能性もあったわけです。

春日井市でも終戦の前日まで、空襲による犠牲者が出ました。猛暑の中、慰霊碑を訪れました(写真)。碑の前で手を合わせて、この地で起こった戦争の悲惨さに思いを巡らし、75年経った今、謝罪の言葉を超えた「世界の平和」に願いを込めました。

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春日井市の県道沿いにある慰霊碑。春日井にあった陸軍施設を狙った空襲により、多くの人が命を落としました。

94. ワクチン

私が小学生の頃、かわいい仔犬を飼っていました。名前は「ころ」。ある週末の朝のこと、ころを抱いて家の門から外へ出たとき、白いスピッツがころをめがけて猛烈に走ってきて、いきなりころを抱いている私の腕を噛んだのです。叫び声を聴きつけて出てきた両親は狂犬病感染を恐れて、私を直ちに病院に連れていき、手当てを受けさせました。記憶はそこで途切れています。

19世紀のこと、フランスのルイ・パスツールは、化学を学び、その後生物を学び、微生物学そして医学の研究に進んでいきました。46歳の時、脳出血で左の手足が不自由になりながらも研究を続け、ウイルスの病原性を弱めたものを植えつけると、その病気にかからないことを発見しました。60歳を過ぎてパスツールは、狂犬病に対してワクチンを作り出すことに成功しています。私がスピッツに噛まれて病院で受けた手当ては、狂犬病ワクチンだったのかもしれません。また英語で加熱殺菌のことをパスツーリゼーションと言いますが、パスツールの名前を取って命名されたものです。

愛知県では緊急事態宣言が再び出されました。新型コロナウイルス感染症のさらなる広がりから不要不急の行動自粛や、県をまたいだ移動の自粛を求めるものです。中部大学は今日で春学期の授業が終了しますが、宣言を受けて大学としての対応を決めたところです(本学ホームページのお知らせ)。

3月半ばから顕著になった感染者数は5月半ばにいったん落ち着きを見せ、再び6月後半から勢いをつけてさらに増えています。100年前のインフルエンザウイルスによるスペイン風邪では足掛け3年、ぶり返しを繰り返して、日本では約40万人の命が失われました。

新型コロナウイルスに対して、各国でワクチンの開発が進んでおり、複数のワクチンが現在臨床試験中であるというニュースは希望をつないでくれます。パスツールが切り拓いた研究の成果が今につながっていることを感じます。

暦の上では立秋でも、コロナで自粛が求められ、外は炎天下で熱中症の心配と、楽しみにくい真夏の到来ですが、何とか乗り切りたいものです。

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キャンパスの西側に位置する総合グラウンド。手前のサブグラウンドと、陸上競技用タータントラックをもつメイングラウンド(三幸橋から撮影)。その向こうに野球場が少し写っており、さらに緑の向こうにはテニスコートがあります。メイングラウンドでは人工芝の改修工事が進行中です。

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