学長ブログ

2021年1月の記事

108. 出生数 270万人 VS 85万人

1月も終わりになり、2月に入ると2日は節分。北米ではグラウンドホッグデー(Groundhog Day)と呼ばれています。冬眠から目覚めて穴から顔を出したグラウンドホッグが、自分の影を見ると、まだ冬が続いていると思って穴の中に戻り冬眠を続ける、ちょっとひょうきんで愛らしいそんな姿に由来します。春を待ちわびた季節の分かれ目は、日本でも外国でも特別なものなのでしょう。

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(穴から顔を出すグラウンドホッグ)

そんな時に気になるニュースが一つ目に留まりました。昨年1年間の日本の出生数が、一昨年の「90万人割れショック」をさらに下回り、85万人以下となりました。新型コロナウイルスの感染が影響して今年の出生数は80万人を割り込むとの予想も出ています。少子化の進行はさらに加速され、日本の社会そのものが大きく変わっていきます。

日本の出生数が1年間に270万人もあったころのことを振り返ってみます。そのころの日本は戦後10数年経ったところで、社会には子供があふれ、まだそれほど豊かでもない社会を反映して、子供たちの中にも偏見、差別、障害、貧困の影が持ち込まれていました。テレビが普及し始めた頃で、子供たちは学び、遊び、時にはけんかをして、まさに多様な集団がそこにはありました。

背丈も大きくガキ大将のたみおと小柄で学級委員のおさむがいたのは、兵庫県でも指折りのマンモス小学校で、1学級には60人近くいて、それが10クラスもあるほどでした。担任の先生は、クラスの一人一人に向き合って、クラスのみんなに慕われていました。下校時には、一人一人が先生と握手して帰っていきました。気の合う二人は、何でもライバルでした。冬の耐寒マラソンでは、校外に出ます。他の学年の生徒が応援する中で、二人が同時にテープを切って、1位を分け合った時には、先生は大いに喜んでくださいました。壺井栄の「24の瞳」の大石先生や、灰谷健次郎の「兎の眼」に出てくる小谷先生と重なるところがありました。

たみおやおさむの時代は、人数の多さが、社会的な背景もあり、必然的に多様性を生んだかもしれません。子供たちは仲間との関わりを通して、社会のことを学んでいきました。ふたりが卒業するころには、市の開発が進み、耐寒マラソンは中止となり、近くに新しくできた小学校に多くの友達が転校していきました。

ずいぶん時が経って、今では1学級の人数が減り、クラスの数も減りましたが、少子化は社会の在り方を映した結果なのでしょう。小人数になっても、子供同士の人間関係、同調圧力の高まり、ぶつかり合いも生まれる一方、外国籍の子供も増え、発達障害や不登校の子供も増えています。形を変えて偏見、差別、障害、貧困の問題は存在します。

確実に、たみおやおさむの時代とは違った多様性が生まれています。子供たちはその多様性の中で育っていきます。社会の大きな流れに逆らうように、10代、20代の若い感性を持つ力が、日本でも世界でも目立った活躍をするようになっています。大きな和を大切にしながら、一人一人の考え方、感じ方を大事にする、そんな教育を、特にコロナ禍の中での変革の中から、推し進めたいものと考えています。

107. 遠隔/対面 これからの授業

1月も終わりに近づき、大学は学年末に向かっています。春学期は遠隔授業を導入して始まり、徐々に対面授業の対象講義を増やし、秋学期には遠隔授業と対面授業をほぼ半々にして開講しました。春・秋学期に実施した遠隔授業についてのアンケートを見ながら、今後の授業運営について考えを巡らします。

学生にとっては、戸惑いながらも遠隔授業に取り組み、自ら問い学ぶという、学問に対する姿勢を考えるきっかけとなったのではないでしょうか。ICTを活用して、オンラインでの質問・グループワーク・コミュニケーションの方法も貴重な経験となったようです。

遠隔授業と一口に言っても、講義がバーチャルになる同時双方向型のもの、講義資料や音声解説付きの教材をネット上に置いて、学生は好きな時間に視聴することができるオンデマンド型のものなどがあります。また、前もってオンラインで講義資料を提供し、対面では議論や質問に答えるという反転授業のように、遠隔と対面を組み合わせたハイブリッドの授業もあります。

学生の評価が大きく分かれたのはオンデマンド型の授業で、じっくり講義内容を学ぶことができると言う声や、資料だけでは授業を受けた気がしないという声も出ています。教員にとっては、授業形態に工夫を重ねる年となったようです。

まだ収まらないコロナ禍で、今後は対面・遠隔を組み合わせるハイブリッド型授業も拡がっていくことでしょう。そこで私がアメリカで留学生として、そして教員として大学に勤務して経験したことと、帰国後2000年代から導入されているハイフレックス授業について紹介します。

アメリカの大学院で学んだ頃(1970年代)、夜に開講される授業は、別のキャンパスとテレビ画面で結び、2カ所で同時に講義が進行していました。私は対面で授業を受けていましたが、教授はテレビ画面の向こうにいる受講生にも話しかけていました。録画したものを別のキャンパスの授業で使い、TA(teaching assistant)が質問を受け付けるということも行われていました。

その後、自分が教員となり、学生は授業の中で質問することを通して、問題の本質に迫り成長していくことを、身をもって知ることになりました。1980年代後半から90年代になると、遠隔地とネットワークで結んでの講義が試みられました。コンピュータの普及と共に、伝統的な教育に囚われない「オルタナティブスクール(alternative school)」(もう一つの学校)が、普及していった頃でもあります。生徒は好きな時に、好きなだけコンピュータの前に座り、録画された内容を学んでいました。教員は質問を受け、生徒の声に耳を傾けるのが役割でした。

2000年代になると、ネットワーク環境の進展に伴い、遠くに住む学生や、働く学生、障害のある学生などを考慮して、「ハイフレックス(HyFlex、Hybrid-Flexible)」と呼ばれる授業形態が普及してきました。どんな授業形態においても、学生は先生と意見交換ができる状態であることが大切なことです。受講者が大人数の場合にはTAが助けに入っていました。

ハイフレックスは、対面、オンライン同時中継、そしてオンライン配信されるもので、学生はいずれによって受講するかを前もって選択することができます。対面とオンラインを取り入れたハイブリッド授業より、さらに柔軟性(flexibility)があるといえます。これによって、アメリカの大学では社会人の学びの門戸が、さらに広がったように感じます。今後、日本で感染がまだ収まらない状況においては、あるいは収まった後でも、対面、オンライン、ハイブリッド、ハイフレックスといろいろな形態での授業展開が考えられることでしょう。

コロナ禍における高等教育の在り方が問われる中、新しい授業形態に適応し、より学びを深める者、適応できなくて取り残される者が生まれる可能性があります。

経済用語でK字型という言葉が使われています。上向きと下向きが離れていく「K」の形になぞらえた二極型のことですが、K字型の教育格差が生まれないようにしなければなりません。学びの在り方に関しては、チェックマーク「✔」のように、皆が上向く新たな学びの展開に繋がるように、教職員・学生と一体となって取り組んでいきたいと思っています。

106. かすがい(学問は鎹)

謹賀新年。今年は春日井で新しい年が明けました。

「子はかすがい」の掛け声とともに盛り上がる2020年秋の春日井まつりも、コロナ禍で中止となりました。掛け声には「子育ては、素晴らしい環境のかすがい(春日井)で」、という願いが込められているそうです。

「子は鎹(かすがい)」

とは、子どもが夫婦を繋ぎ止める役割をするということわざです。この『鎹』という言葉には、二つのものをつなぐ働きをするという意味があります。

コロナ禍でいろいろなものが分断されました。大学は人が密集する場所として、対面での授業を制限して、オンラインでの遠隔授業を取り入れました。それにより教員と学生が教室で直接顔を合わせるという、当たり前のことができなくなる状態が続きました。そこで大学において、そのすべての構成員をつなぎとめる『鎹』に当たるものは何なのかと、思いを巡らせてみました。

スペイン風邪と呼ばれたパンデミックは、1918年から1920年にかけて日本にもやってきました。国内で40万人、世界で4千万人が死亡したともいわれています。1922年内務省衛生局より刊行された『流行性感冒』(2008年平凡社より翻刻版として出版)には、日本や世界の大学が閉鎖されながらも、教員や研究者が原因病原体の追求とワクチンについて取り組んだ様子が、記載されています。パンデミックの後、大学は学問の府として、その活躍の場を広げていきます。

今、新型コロナウイルスによるパンデミックの中で、大学の存在意義が問われています。大学に行かなくても、インターネットにより世界中に公開されたオンライン講座で、知識を得ることはできるではないかというのです。大学において、その構成員をつなぎとめる鎹は『学問』ではないかと考えました。孔子の「論語」の中の言葉「吾十有五にして学に志す」が思い浮かびます。ここで学とは学問を指しています。大学に入学するものは学問を志して入ってきます。ではまず学問とは何かを考えてみます。

イタリアのガリレオと同時代のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、17世紀初頭の著書「学問の進歩(Advancement of Learning)」 で、観察と実験に基づく知識の体系こそが学問であると主張しています。当時考えられていた学問とは、実際とかけ離れた空想や神の言葉を論じることが主であったので、観察と実験を通して得た知識が、実際に力となること、そして学問は役立つと主張しています。

広辞苑によると、学問とは「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」とあります。学問とは体系化された知識を文字通り、問うことにより学ぶことであり、学んでまた問うことです。

「学問」における問いとは、単なる質問ではなく根源的な問いを意味しています。今学んでいることが、自分の生きる中でどういう意味を持つのかという根源的な問いは、学びを通して自ら答えを見つけていくことになります。教師自らも、教えることを通して、自分自身に問いを発することになるでしょう。それこそが学問のあるべき姿だと思っています。

限られた学びの中では一人で答えに到達できないかもしれません。人と人とが交わり、議論や何気ない会話、あるいは課外活動の共同作業の中で、初めて根源的な問いに対する答えを見つけることができるかもしれません。さらに学びは一生続けることになるのかもしれません。そこに学びを志すすべての人を受け入れる『大学』の存在意義があるはずです。

学問は鎹(かすがい)。

コロナ禍で命と向き合う状況でこそ、本当の学問とは何かを考える機会となっています。大学と学びを志すものをつなぎとめるのが、「学問」ではないでしょうか。コロナ禍はまだ続きそうです。終息しすべての大学の機能が戻るまで、学問に対する情熱を持ち続けてほしいと願っています。

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