学長ブログ

106. かすがい(学問は鎹)

謹賀新年。今年は春日井で新しい年が明けました。

「子はかすがい」の掛け声とともに盛り上がる2020年秋の春日井まつりも、コロナ禍で中止となりました。掛け声には「子育ては、素晴らしい環境のかすがい(春日井)で」、という願いが込められているそうです。

「子は鎹(かすがい)」

とは、子どもが夫婦を繋ぎ止める役割をするということわざです。この『鎹』という言葉には、二つのものをつなぐ働きをするという意味があります。

コロナ禍でいろいろなものが分断されました。大学は人が密集する場所として、対面での授業を制限して、オンラインでの遠隔授業を取り入れました。それにより教員と学生が教室で直接顔を合わせるという、当たり前のことができなくなる状態が続きました。そこで大学において、そのすべての構成員をつなぎとめる『鎹』に当たるものは何なのかと、思いを巡らせてみました。

スペイン風邪と呼ばれたパンデミックは、1918年から1920年にかけて日本にもやってきました。国内で40万人、世界で4千万人が死亡したともいわれています。1922年内務省衛生局より刊行された『流行性感冒』(2008年平凡社より翻刻版として出版)には、日本や世界の大学が閉鎖されながらも、教員や研究者が原因病原体の追求とワクチンについて取り組んだ様子が、記載されています。パンデミックの後、大学は学問の府として、その活躍の場を広げていきます。

今、新型コロナウイルスによるパンデミックの中で、大学の存在意義が問われています。大学に行かなくても、インターネットにより世界中に公開されたオンライン講座で、知識を得ることはできるではないかというのです。大学において、その構成員をつなぎとめる鎹は『学問』ではないかと考えました。孔子の「論語」の中の言葉「吾十有五にして学に志す」が思い浮かびます。ここで学とは学問を指しています。大学に入学するものは学問を志して入ってきます。ではまず学問とは何かを考えてみます。

イタリアのガリレオと同時代のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、17世紀初頭の著書「学問の進歩(Advancement of Learning)」 で、観察と実験に基づく知識の体系こそが学問であると主張しています。当時考えられていた学問とは、実際とかけ離れた空想や神の言葉を論じることが主であったので、観察と実験を通して得た知識が、実際に力となること、そして学問は役立つと主張しています。

広辞苑によると、学問とは「一定の理論に基づいて体系化された知識と方法」とあります。学問とは体系化された知識を文字通り、問うことにより学ぶことであり、学んでまた問うことです。

「学問」における問いとは、単なる質問ではなく根源的な問いを意味しています。今学んでいることが、自分の生きる中でどういう意味を持つのかという根源的な問いは、学びを通して自ら答えを見つけていくことになります。教師自らも、教えることを通して、自分自身に問いを発することになるでしょう。それこそが学問のあるべき姿だと思っています。

限られた学びの中では一人で答えに到達できないかもしれません。人と人とが交わり、議論や何気ない会話、あるいは課外活動の共同作業の中で、初めて根源的な問いに対する答えを見つけることができるかもしれません。さらに学びは一生続けることになるのかもしれません。そこに学びを志すすべての人を受け入れる『大学』の存在意義があるはずです。

学問は鎹(かすがい)。

コロナ禍で命と向き合う状況でこそ、本当の学問とは何かを考える機会となっています。大学と学びを志すものをつなぎとめるのが、「学問」ではないでしょうか。コロナ禍はまだ続きそうです。終息しすべての大学の機能が戻るまで、学問に対する情熱を持ち続けてほしいと願っています。