学長ブログ

62. 観瀾―波を見る 

新型コロナウイルス感染症は世界中に広がり、街の中では多くの人がマスクを着用していることに異様な雰囲気を感じます。グローバル化が進行するにつれて、拡散のスピードが速まるようです。

過去のいくつかの感染症の例を見ると、風土病として一地域に限定されていたものが、交通手段の発達とともに地域が拡大していくことがわかります。2世紀の古代ローマ帝国ではローマ街道を通って天然痘やマラリアが広がり、14世紀にはシルクロードを通ってヨーロッパに入ったペストが猛威を振るい、19世紀には産業革命による交通手段の発達がコレラを世界的な流行に導いています。20世紀に入ると第1次世界大戦中にスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが世界中に広がり、当時の世界人口18億人に対して、死者は5千万人とも1億人ともいわれています。

日本でも疫病は古くから「はやりもの」、「はやりやまい」といった言葉で恐れられてきました。東大寺の大仏は「はやりやまい」や社会不安を鎮めるために作られたとも伝わっています。感染症の正体がわかってきたのは近代になってからのことです。驚異的な感染力を持つウイルスは、ドイツ語のヴィールス(Virus)からきており、医学用語として明治時代に入ってきました。それまでにも江戸時代に、蘭学の一部として西洋医学は入ってきており、医学を含む自然科学、人文科学等さまざまな新しい概念や知識が翻訳されて入ってきています。

私の専門である物理学は、蘭学の中では自然科学一般の中に含まれていました。江戸末期にはオランダ人ボイスの自然科学の教科書をもとにして、『気海観瀾(きかいかんらん)』が翻訳出版されています。気海観瀾は空気、海、見る、波を表す4文字です。瀾はあまり見慣れない字ですが「人生、波瀾万丈」と言ったように使われており、この場合「瀾」は大波を意味しています。気海とは地球を包む空気の広がりを海に例えた言葉で、自然界ともいうべき意味です。思いつくままに「気」の付く言葉を並べてみても、大気、空気、天気、気象、電気、磁気、気体そして病気があります。『気海観瀾』では自然界の現象、物質の性質も扱われています。観瀾とは波を見るという意味です。書名は一般物理学講義といったものではなく、『気海観瀾』という見事な日本語に置き換えられていると思うのです。

今や気海では、グローバル化という言葉で表されるように、人間の往来はより活発となり、そして人間の親交がより密となり、お互いがすぐに影響を受けることになります。今回の新型コロナウイルスの拡がりは、グローバル化した人間社会を気海に例えるならば、気海に現れたさざ波のようにも感じます。ただし場所によってはそのさざ波は大波、いやそれどころか津波のように押し寄せてもいるようです。

この100年間、世界の人口増加は約57億人で、その前の100年の人口増加約8億人に比べると非常な勢いで増えていることが分かります。世界中で健康管理や衛生が行き届くようになり、医療が進み、感染症に対しても有効な手段が取られてきた事も人口増加の一因と考えられます。今回の感染症に対しても有効な対策が見出されて、津波を制御して平常の気海に戻ってほしいものと思いつつこれを書いています。

61. 逆さオリオン

冬の星座で、南の空で目につくのは、大犬シリウス、子犬プロキオンとオリオン座のベテルギウスの3つの一等星が形作る冬の大三角形。そして赤みがかったベテルギウスを左上角として、右下角にある青白く輝くリゲルとともに、オリオンのベルトに当たるところに並ぶ「オリオンの3つ星」と呼ばれる3つ星を囲むように縦長の四角形を作っているのがオリオン座です。ギリシャ神話ではオリオンは狩人ですが、4つの明るい星とその中にある3つ星を鼓に見立て、和名では「鼓(つづみ)星」として知られています。

昨年12月末南米ペルーへの旅行先で見たオリオンは逆立ちする狩人でした。マチュピチュの南、聖なる谷と呼ばれる所にある標高2800メートルの街オヤンタイタンボで、見上げた夜空に真っ先に目に入ったのがオリオン座でした。南半球で見る星座はひっくり返っているので、狩人オリオンの右手に持つ棍棒は下を向いているのです。

この1等星ベテルギウスは不規則変光星として知られており、変光の周期も不規則で全天で21ある1等星の中でも9番目に明るくなったかと思うと、20番以下にまで暗くなることもあります。それが昨年秋から、2ヶ月ほどで明るさが半分になり、これまでの観測史上で最も暗くなっていると、12月に米国の天文学者達が発表したことにより、超新星爆発の可能性が論じられています(朝日新聞Digital 2020.1.18)。

ベテルギウスは我々の銀河の中にあり、地球から約642光年と比較的近くにあります。約1000万年前に誕生したと考えられ、太陽が46億年前に誕生したことを考えると、ずいぶんと若い星と言えますが、質量は太陽の20倍もあるため、内部で起こっている核融合の進行が早く、最後には重力崩壊に伴う超新星爆発の可能性があるというのです。

超新星爆発と言えば、1987年に南米で観測された超新星のことを思い出します。地球から16万光年離れた我が銀河系(天の川銀河)の隣にある銀河大マゼラン雲にあらわれた超新星は、突然現れ、そこから地上に降り注いだニュートリノを観測して、2002年に小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞したのです。1987年の超新星とは違って、ベテルギウスは天の川銀河内にあります。これまでの我が銀河内の超新星は、1054年、藤原定家の日記である『明月記』に伝え聞いたこととして記述されたもの(その時の超新星爆発の残骸は現在のかに星雲)、1572年のティコの超新星、1604年のケプラーの超新星が知られています。

新年になって、南半球で見た、逆さになったオリオンの右肩で赤い光を放つベテルギウスの異変が気になるところです。

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南半球(南米ペルー)では北の空低く、オリオンが逆立ちして見えた。おおざっぱに天の川の位置を示す。逆さオリオンの右手に振り上げた棍棒が天の川に沿って下に伸びる。北半球にいる我々には、オリオン座は南の空に見え、オリオンの右肩の赤い星ベテルギウスは左上角に、右下角に左足下の青白く輝くリゲルが見える。

60. 2020年 年頭に思う

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あけましておめでとうございます。
写真は、中部大学の学生寮に住む学生さんが12月恒例の餅つき大会でついた鏡餅をいただいて、自宅で撮ったものです。

年頭に当たり、異国の地ペルーで、文明、文化について思うところを記します。
多くの先人が知の巨人となって、我々はその肩の上に乗っているからこそいろいろなことが見えてきて、それによって将来のことを考えることができるのでしょう。

宇宙の誕生:138億年前に宇宙が誕生し、物理学の物語が始まり、その数十万年後には原子が形成され、化学の物語が始まります。38億年前に生命が誕生し、生物学の物語の始まりです。5億年前には地球の急激な環境変化により、最初の生物の大量絶滅が起こります。環境の急激な変化に適応した種が生き延びても、その後4度の大量絶滅を迎えました。直近の大量絶滅は6500万年前で、恐竜の絶滅で知られるものです。恐竜の絶滅には60万年かかっていますが、生命の歴史の中ではほんの短い時間で起こった出来事です。 

人類の誕生:そして250万年前に原人と呼ばれるヒト属が現れることになります。新人と呼ばれるヒト属の1種類であった現生人類ホモ・サピエンスは、20万年前にアフリカ大陸で誕生します。7万年前にはホモ・サピエンスは移動をはじめ、アフリカから世界に拡散していきました。人類史、歴史の始まりといえるでしょう。一つの流れはヨーロッパへ向かい、4万5千年前にはスペインにまで到達しています。もう一つの流れは、ユーラシア大陸、そして陸続きだった北アメリカ、そして1万2千年前には南アメリカに到達したのです。その時までにはホモ・サピエンスが絶滅を免れた唯一の人類の生存種となっていたのです。そしてそのころから世界中の各地で農業革命がおこり、人類は狩猟から農耕へと生活様式を変えることになります。このころになると、今から何年前というより紀元前何年という言葉が、歴史を語る感覚にはぴったりくるようになります。紀元前9000年にはチグリス・ユーフラテス川のあたりで、紀元前7000年のころには黄河・長江のあたりで、そしてアメリカ大陸に入ると紀元前4500年のころにはメキシコを含むメソアメリカで、そして紀元前3500年のころにはペルーを含むアンデスで、農耕文化が発達したようです。

アンデス文明:飛行機で名古屋を出て、成田で乗り換えて東に11時間半、北米のテキサスで乗り換えて、さらに7時間南に下がり、南半球の太平洋に面するペルーの首都リマに着く。ここは真夏です。そこからさらに1時間あまり、アンデス山脈に向かって飛ぶと、標高3400mのインカの古都クスコに着く。そこから鉄道で5時間足らず、マチュピチュの遺跡にたどり着く。紀元前3000年ころからペルーの各地で文化が花開き、紀元後11世紀ころからクスコを中心として台頭した民族集団が、部族間の争いをまとめ、ついに統一国家インカ帝国を実現したのが紀元後1400年ごろです。カパック・ニャンと呼ばれるインカの道は、現在のペルー、コロンビア、エクアドル、ボリビア、チリ、アルゼンチンと6か国にまたがり、すべてクスコに通じるほどの道路網を完備していたようです。また紐に結び目をつけて数を表すキープと呼ばれる結縄を使って記録をつけた徴税制度も確立されていたようです。そうした帝国の皇帝の離宮あるいは要塞として、急峻な山の尾根にマチュピチュを造りあげていたのです。コンドルの神殿と呼ばれる巨石を使って造られた建造物など、目を見張る技術を使っての空中都市とでもいえる遺跡が残っていました。

文明の崩壊:インカ帝国は、皇帝の継承問題を抱え、帝国の統一が乱れた時期に、侵略してきたスペインによって、あっけなく滅びることになるのです。紀元後16世紀のことです。それから500年足らずの間に、世界中で産業革命による工業社会、情報革命による情報社会が現れて、現在のリマは一千万都市としてにぎわいを見せています。リマの滞在先からすぐのところで起こった23年前のペルー大使公邸人質事件を思い出しながら、格差社会が広がり、それほど良くない治安の街でこの文章を書いています。ペルーはまだ12月31日ですが、14時間の時差のある日本ではもう2020年1月1日。

2020年に向けて:あっけなく崩壊した一つの文明を思いながら、グローバル化した現在の世界を考えてみます。2019年の日本では9月、10月に台風15号、19号が予想を大きく超える被害をもたらしました。地球規模での気候変動という非常事態や、生物多様性の破壊は、原因が人間の活動に起因するとも指摘されています。現在、生命誕生以来6度目の大量絶滅時代に入っており、絶滅の速度は過去に比べても数100倍のスピードで進行している可能性もあるといわれています。ディープ・プアという言葉で象徴されるような日本を含めた世界で進行する経済格差の問題。ベルリンの壁が崩壊してから30年が経つというのに、世界中で人々の間に分断が起こり、不安定な情勢が引き起こされています。これからの夢のある社会を築いていくためには、世界の中に置かれた我々の状況を理解し適応する必要があり、高等教育としての大学での教育がカギを握っていると思います。

一人一人の中に多様性を:「大学」を意味するuniversityには、変化する対象に対して、統一的な見方をするという意味が含まれており、そのために総合大学ではいろいろな意味での多様性diversityが求められます。変化するものを様々な見方で捉え、適応していくことが必要とされることでしょう。変化に対する適応こそがホモ・サピエンスが生き延びた理由であり、目の前の変化に適応することができなかったことが、インカ帝国が脆くも崩壊した理由であるのかもしれません。「教育」を意味するeducationの語源は「引き出す、導き出す」という言葉につながり、大学で学ぶ者は、一人一人が持てる力を自ら気づいて引き出すことができる、そんな教育環境を中部大学では作りあげたいと思っています。そのために中部大学では、いろいろな考え方の人々を含む多様性と、一人一人の中に多様性を持つことができるような教育を目指したいと思うところです。

2020年が皆さんにとって、豊かでいい年となることを祈って。
ペルー リマ市にて

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15世紀インカ帝国のころ、マチュピチュには500~1000人ぐらいの人が住んでいたと考えられます。アンデネスと呼ばれる段々畑に見られる農耕技術や、石を切り出し造り上げた石造建築にはすぐれたものがあります。

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マチュピチュ遺跡のふもとにあるレストランに飾ってあった、インカの歴代皇帝(紀元後1000年ごろから1533年)。第9代パチャクテの時に、大規模なインカ帝国の基礎が作られました。パチャクテの息子アマル・インカ・ユパンキは戦士とはならず、すぐに弟のトウパク・ユパンキに皇帝の地位が移っています。

59. 忖度:アビリーンのパラドックス

テキサス州の西部(西部テキサス)は半砂漠地帯で広い。私が住んでいた人口20万人程度のラボック市は、東西を結ぶ州間高速道路インターステイトI-20とI-40に挟まれており、ラボック市を中心にして半径500キロの円の中では最大の都市です。東に550キロ離れたダラスに行くのには、I-20を通って行きます。鉄道もないから、交通手段は車だけです。途中にアビリーンと言う人口10万人程度の小都市があります。今回の話は、その小都市アビリーンとその南に位置する田舎町が舞台です。

西部テキサスの人はいかにも人懐っこくて、明るくて陽気なところがあります。挨拶言葉に、ハウディ ヨール(Howdy y'all?)というように、気軽に知らない人にも声を掛けてきます。ここでヨールはyou allからきていて、皆さんという意味の親しみを込めた南部言葉です。

そして西部テキサスの夏は暑い。私が経験したのは華氏105度(摂氏40.6度)。春から夏にかけて、砂嵐が吹くことがあります。広大な綿花畑のトップソイルと呼ばれる表土を巻き上げるのです。この物語は、経営学者ジェリー・ハービーによって1974年に書かれたもので、劇場風にして、紹介してみましょう。

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第1幕

居間で4人がテーブルを囲んでゲームを楽しんでいます。夏の週末、久しぶりに娘夫婦が両親の家を訪れたのです。外は華氏104度の酷暑で、この日も砂嵐が吹き荒れています。しかし、冷房のない居間では扇風機が回っていて、暑いながらも冷たいレモネードを飲みながら、我慢のできる状況。そんな時、父親が突然提案します。
「どうだ、これからアビリーンまで走らせてみないか」
娘婿のジェリーは、(冗談じゃない、この暑い中を、冷房のない車で2時間近くかけて、砂嵐の中をアビリーンまで行こうって言うのか)と思った矢先に、ジェリーの妻が
「父さん、いい考えだわ、行きましょうよ。ジェリーはどう思う?」
ジェリーは場の空気を読んで、思っていることと違うことを言ってしまうのです。
「いいと思うよ。おかあさんはどうかな?」。
母親はすかさず答える
「もちろんよ。行きましょう。もうアビリーンには随分行ってないもの」

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幕間

こうして、4人はアビリーンまで、冷房のない車で向かうことになります。酷暑のうえ、砂嵐で視界が悪い中、4人は汗と砂が体中にこびりついて、おまけにアビリーンで入ったカフェテリアは壁に穴が開いているような粗末なところで、食事もこれは何だと思うようなひどい味。往復4時間で、家に戻ってきました。

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第2幕

家に帰りついた4人は、みんなひどく不機嫌で、だれも声を出さない。長い沈黙の後、とうとう、ジェリーが場を取りなすように言う。
「面白いドライブだったよね」
誰も答えなかった。しばらくして母親がちょっといらだったように言う。
「正直に言うと、大変な目にあったわ。ちっとも楽しくなんかなかったし、家にいたほうがよっぽどましだったわ。みんなが行きたいっていうものだから、しぶしぶ行くって言ったんだけど、ヨール(みんな)が私に圧力をかけて無理やりすすめなければ、私は行ったりしなかったわ」
ジェリーはびっくりして答える。
「ヨールってどういうつもりなんです?僕までヨールの中に入れないでくださいよ。僕だって、居間でゲームをやっているほうが楽しかったんですから。行きたくなかったけど、みんなが望むならと思っただけです。いわば皆さんが犯罪者ですよ」
ジェリーの妻は、びっくりしてしまう。
「犯罪者なんて言わないでよ。あなたと、父さんと母さんの3人が行きたいって言いだしたんじゃない。私はただみんなが望むようにしたいと思っただけよ。こんな暑い中を車で出ていくなんて、考えただけでクレイジーよ」
突然、親父さんが話に割り込んできた。
「冗談じゃないよ。いいか、俺はアビリーンなんて行きたくもなかったんだ。みんなが退屈そうにしてるから、せっかく久しぶりに来てくれたお前たちが、喜んでくれるようにと思っただけさ」

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ジェリーは義父と妻の心を忖度して、酷暑の中、アビリーンまで行こうと言ったのでしょう。さらに、義母は、3人の気持ちを忖度して、行こうと言ったんでしょう。自分はそうは思っていないけれど、みんなが望んでいるんだと思い込み、結果として、集団として誤った決定をしてしまうことは、「アビリーンのパラドックス」として知られるようになったということです。

EU離脱を主張する保守党が勝利を収めた英国総選挙の結果が、アビリーンのパラドックスにあたるかもしれないと、今日の中日新聞に出ていたので、懐かしい西部テキサスのことを思い出していました。

アビリーンのパラドックスは結構、我々のまわりでも起こっていることかもしれません。

58. フォルクローレ

今から200年前、南アメリカ解放の父として知られるシモン・ボリバルの活躍により、スペインからの独立を勝ち取った国は彼の名前にちなんで、ボリビアと名付けられました。そのボリビアの大都市ラパスはアンデス山脈の標高3700mのところにあり、そこで活躍する日本人音楽家を中心とするグループの演奏会が名古屋でありました。

自分の首から下げた長さの違う筒を3列に並べて作られたサンポーニャを、南アメリカ大陸に見立てて、年長の浩安さんが、ボリビアの位置を示されました。そうするとサンポーニャが何となく南米大陸の形に見えてきました。太平洋沿岸に沿って連なるアンデス山脈。南米大陸の中央に位置するボリビア。北と東はブラジル、南はアルゼンチン、南東はパラグアイ、南西はチリ、北西はペルーに隣接しています。四方を海で囲まれている日本とは対照的に、五つの国によって囲まれているのです。

「4人アンデス」。健一さんがマンドリンのような形のチャランゴを弾きながら、高い陽気な音を出し、踊りまわります。19年間もボリビアに住んでいて、映画の音楽演奏も手掛ける広行さんがギターを奏でながら、スペイン語で民族音楽を歌い上げます。康平さんがギターを弾いていたかと思うと、次の曲ではチャランゴ、そして次の曲では山羊の爪をたくさん結び付けて、手で振って独特の音を出すチャフチャスを演奏します。私の最も好きなのは浩安さんの吹くサンポーニャの音色。ハーモニカのように吹くものの、いかにも南米の雄大な自然が思い浮かんでくる深い音色です。浩安さんは尺八のような縦笛ケーナも吹き、大太鼓ボンボも叩きます。

「コンドルは飛んでいく」は、滅びたインカ帝国の魂に向かって大空をコンドルが飛んでいくという、哀愁を帯びていながら、大自然を感じるので、私の好きな曲です。アンデスの音楽を聞きながら、陽気なボリビアの人たちの生活を想像します。国民一人あたりのGDPでは日本の10分の1にもならない国だけれど、陽気な人たちを思い、心の豊かさを感じずにはいられませんでした。

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サンポーニャは南米大陸の形に似ていた。ボリビアの位置はその中心にある。
4人アンデスはテンポの速いボリビアの民俗音楽を演奏する。右から浩安さん、康平さん、広行さん、健一さん。

57. 大学入学共通テスト

「大学入試」という言葉から、大学生にとってはついこの間まで頑張って勉強した事を思い出すのではないでしょうか。人生100年と言われるなかにあっても、どの大学で教育を受けるかということが個人にとっての大きな選択となることでしょう。

大学入学試験は、今から40年前、当時の文部省が「現在の入試は受験生に受験技術的学習を強い、高校以下の教育に大きな影響を及ぼしている」という考え方に基づいて、機会均等、公平・公正さを重視して、共通一次が導入されました。その11年後に大学入試センター試験、そしてこれから予定されている大学入学共通テストへと変遷しています。今回、文部科学省は新制度の下で導入しようとしていた、英語民間試験活用の延期を発表しました。延期の理由として民間試験活用が内包する地域格差、経済格差が挙げられました。中部大学では前もって、今回の活用を見送ることを決定していましたが、延期の発表は社会に大きな波紋を投げかけています。

アメリカの例を見ながら今後の日本の入学試験の在り方を考えてみましょう。アメリカの大学では民間試験であるSATやACTと言った共通(標準)テストの点数を入学判定に用い、高校の成績や課外活動などが考慮され、アドミッションオフィスで入学が決定されてきました。長く、共通テストこそ、フェアな選抜方法と考えられてきたのです。しかし近年、複数回受験できる共通テストは経済的に豊かな層に有利に働き、経済的理由が教育格差を生み、高等教育機関における多様性が阻害されていることが認識されています。全米で共通テストの点数の提出を義務付けない大学が広がりを見せています。アメリカには約3000の4年制大学と約1600の2年制大学が存在していますが、現在有力大学を含めて1000以上の大学で共通テストスコアの提出は任意であるとしているのです。

アメリカの大学で入学者選抜に学力だけでなく、課外活動などの側面を取り入れるようになったのは、20世紀前半のことです。ヨーロッパで排斥されていたユダヤ人が移民としてアメリカに入ってきて、学力試験の成績で上回るユダヤ人学生が急速に増えてきたために、多様性を確保するという理由で総合的評価が導入されたといわれています。また人種差別やマイノリティーの問題を解決するために、大学選抜においてもアファーマティブ・アクション(積極的な差別是正策)が取られてきました。一方、2018年に入学選考を巡って、ハーバード大学が、SAT高得点のアジア系米国人を差別しているとして訴えられました。その裁判の判決が、この10月に出ました。ハーバード大学の主張する「学業の優秀さ以外の幅広い選考基準を用いることの正当性」の主張が認められたことになります。アメリカでも教育改革が進行中ですが、注目に値する判決結果だと思います。

中部大学では総合大学として、門戸を広げ、意欲のある多様な才能を受け入れています。講義や実習を通して基礎学力を確認しながら、適性と意欲を見るAOポートフォリオ入試を導入しています。そして教え育てるという上から目線ではなく、個々の才能が見出されて、大きく育つような、学びを中心とした教育環境を作り上げています。

56. 1:16

世界の人口は76億3千万人、そのうち女性比率は49.6%(国連統計、2018)、日本の総人口は1億2千6百万人で女性比率は51.3%(総務省統計、2019)。世界でも日本でも男女の数はほぼ半々といえます。日本の全就業者6千7百万人のうちで女性比率は44.5%(総務省発表、2019.7)。では、大学に目を向けると、日本の大学生人口は291万人で女性は44%(学部生は260万人、女性の割合は45%)となっており、時間の流れで見ると女性の割合が14%(1960年)、22%(1980年)、36%(2000年)となり、男女比は1:1になる方向に向かっています。

中部大学では学生数1万1千人のうち女性比率は27%、そして800人を超える教職員では女性比率は37%となっています。女子学生比率は9%(1990年)、22%(2010年)、そして女性教職員比率が21%(1991年)、31%(2010年)と比べると、確かに着実にキャンパスにおける女性比率は上に向いているのがわかります。徐々にキャンパスには女子が増えてきていますが、まだ1:1からは遠い感じです。

昨年訪れたフランス・ボルドーの大学で出会った女性副学長が、クオータ制のことを説明してくれました。フランスでは女性の社会進出を後押しして、クオータ制と呼ばれる割り当て制度が存在しています。男女性差別による弊害解消のために、男女比に法的な縛りを導入したものです。私がいたアメリカのTTU(テキサステック大学)では、現在学生数3万7千人に対して女性比率は47%となっています。欧米の大規模大学では男女、人種も含めて多様性を感じることが多く、女性比率が50%を超える大学も多いようです。

中部大学には、「女性教職員のためのランチの会」があって、時々招かれていっしょに大きなテーブルを囲んで、昼食を取りながらおしゃべりを楽しみます。今回は、男性は私1人に対して、女性が16人。男女比率はここでは1:16です。16人の関わっている部署や学部も異なり、年齢も20代から60代まで。テーブル越しの活発なおしゃべりの中から、学生も含めた中部大学ファミリーが個々に関わる授業や、クラブ活動におけるさまざまな側面や、人間関係が見えてきました。そして中部大学における女性のエネルギーを感じた歓談の場でした。

清風万里の言葉で表されるように、キャンパスにいる一人一人がこの春日井の丘ですがすがしい気持ちで、学びに勤しみたいものです。個別の分野での偏りはあっても、全体として見れば、社会の男女比に近づくように、キャンパス内も男女比1:1を目指したいと思います。そうすることが総合大学(UNIVERSITY)の中での多様性(DIVERSITY)を実現することにも繋がることになると考えるからです。

55. 秋の日の散策

10月8日火曜日、雲一つない快晴で、気持ちのいい秋晴れ。久しぶりに昼休みに時間ができたので、学長室のメンバーを誘ってキャンパスを散策することにしました。10月に入ってから30度近くまで気温が上昇し、「衣替え」と言う言葉が不似合いな日々が続いた矢先に、過ごしやすく爽やかな陽気となりました。

昼休みに入ったばかりで、多くの学生がキャンパス内を行き交います。不言実行館の前では、中部大学ボランティア・NPOセンターの学生達が災害支援の募金活動をしていました。ささやかな募金を行い、学生を励ました。

そのまま北へ進み、右手に緑濃い木々に囲まれた書院を横目に見ながら、二人連れだって人文学部を目指します。キャンパス整備のおかげで、歩道がゆったりと広くなったことを感じます。25号館の中に入ると、廊下から見える中庭で学生たちが談笑している光景が大学らしい趣を醸し出しています。高い天井と、明かり取りの天窓が開放的な第3学生ホール(食堂)は、昼食をとる学生で溢れていました。25号館から裏道を抜けて、新しい宇宙航空理工学科の15号館を見て、立体駐車場の横を通り、サブグラウンドの方へと向かいました。

気持ちのいい青空。すれ違う学生が挨拶をしてくれるので、一層清々しい気持ちになります。メイングラウンドの東側にあるクラブ・サークルプラザから学生が練習しているのでしょうか、楽器の音色が聴こえてくると、ふと

「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/ひたぶるに/身にしみて/うら悲し」

という上田敏の翻訳詩が思い浮かびました。

秋と言っても紅葉には早いキャンパスですが、10月ということで思い出したことがあります。カナダのプリンス・エドワード島を舞台にしたモンゴメリの「赤毛のアン」の中で、アンが、「10月が存在する世界に住んでいてうれしい」と、10月に対する想いを述べるところがあります。

I'm so glad I live in a world where there are Octobers. It would be terrible if we just skipped from September to November, wouldn't it?

カナダでは11月になると、冬の訪れです。7年間住んでいたカナダの大学では、9月に新しい学年が始まり、11月になると冬の気配がします。その間の10月は特別な感慨があったことを思い出します。

図書館を右手に見て、芝生を横切って坂を上り、第1学生ホール(食堂)まで戻ってきます。学生ホールで多くの学生が語り合う風景は格別です。いい教育空間がここにはあると感じます。散策の途中で足をとめ、教員と話すことも、また楽しいものでした。

昼休みが終わり、学生たちも講義室へ移動し始めたころ、私も学長室へ戻り爽やかな気持ちで執務にとりかかりました。

54. 北緯5度 マレーシアのペナン島

8月半ば、バンコクから飛行機でまっすぐ南に約1000キロ飛んで、マレーシアのペナン島へ。ペナン島は北緯5度、東経100度に位置します。赤道にかなり近く、北緯35度、東経137度の名古屋から直線距離にして5000キロメートルのところにあります。

赤道に近いペナン島に着いてみると、異常気象で40度近くまでになる酷暑の日本に比べ、意外なことに過ごしやすいところでした。年間を通じて25度~32度とほぼ一定という。30年の交流実績を持つマレーシア科学大学を訪れ、イスラム教徒で、マレーシアでは初めての女性学長であるイスマイル学長の温かいもてなしを受けました。高台に位置する学長室につながるバルコニーから緑の多いキャンパスが眺められ、すぐそばにマラッカ海峡につながる海が見えました。植民地時代にはイギリス軍が占領し、キャンパス内の多くの建物はその名残をとどめ、また太平洋戦争のころの日本軍による占領のあとも残っていました。

ペナンの街で、太陽の位置から方角を考えたときに違和感を覚えました。太陽のある方は南ではなく、北になるのです。緯度が北回帰線(北緯23.5度)より南にあるため、秋分近くまでは太陽の通り道は北側となるのです。つまり日中の太陽は日本のように南からではなく、北の窓から差し込むのです。

マレーシアはタイとは陸続きになっているものの、文化的には随分と違うようです。国教としてのイスラム教を国民の半分以上が信仰しているものの、中国系の人々は仏教、インド系の人はヒンズー教が多く、それが混じってマレーシアの文化を作っているようです。なかでもムスリム(イスラム教徒)の女性のツドン(tudung hijab)と呼ばれる頭部を覆うものが、カラフルでおしゃれになっているのが目につきました。

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マレーシア科学大学学長室からペナン市街を眺める

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マレーシア ペナン島のモスク(イスラム教の礼拝堂)

53. 仏教国タイ

タイのバンコクを訪れました。本学と協定のあるアジア工科大学院、モンクット王工科大学ラートクラバン校、チュラロンコン大学を訪れたのです。ちょうど国王の母君の誕生日と、その少し前に国王の誕生日があって、バンコクのいたるところに、二人の大きな写真が飾られていました。タイでは王様が国民に慕われていることを感じました。バンコクの中心はいつも車の渋滞で、車の間を縫うように走り抜けるバイクと、トゥクトゥクといわれる3輪自動車タクシーが目につきました。通りでは仏教の僧衣をまとった僧侶の姿が見られました。

アジア工科大学院では、2011年から中部大学と連携して始めた、ESD(持続可能な開発のための教育)に焦点を当てたサマースクールでの開講式に出席。中部大学生を含めて20人余りの環太平洋の国から参加した学生に激励の言葉を送り、そのあとウーン学長とさらなる連携に向けて会談。モンクット王工科大学ラートクラバン校では、工学部中心に続いている学生交流を伴った共同研究の強化についてジャングワニトラート副学長らと話し合いました。さらにタイで最も古く100年以上の歴史を持つチュラロンコン大学ではこれまであった部局間協定を発展させて、大学間協定を締結。これまでの研究交流実績をもとに、全学的な交流に広げていくことをユーラポーン学長と約束し合いました。

合間を縫ってバンコク市街の寺院を見学し、仏教国の文化を見ることができました。なかでも黄金の仏教寺院ワット・ポーにある釈迦涅槃仏(ねはんぶつ)が印象に残りました。

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チュラロンコン大学で大学間連携協定を締結

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タイの仏教寺院ワット・ポーにある全長46mの巨大な涅槃仏

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