学長ブログ

42. クーデンホーフ=カレルギー伯爵

新年あけましておめでとうございます。
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学生寮恒例のもちつき大会でつきたての鏡餅を、寮生の皆さんからいただきました。

新年早々、アメリカのコンサルティング会社「ユーラシアグループ」が、今年の「世界のリスク」を発表しました。最大の危機は、危険の種が世界中に蒔かれているという指摘です。米国で民主主義の揺らぎ、欧州で大衆迎合のポピュリズム政治の広がり、抑止力が効かないサイバー攻撃、国際協調に目を背ける指導者達というように、地政学的リスクが広がっているというのです。

ここでは世界の危機とも指摘されたEU(ヨーロッパ連合)の弱体化について思いを巡らせてみます。1991年の旧ソ連崩壊後、1993年にEUが成立、1999年には統一通貨ユーロが導入され、単一通貨は加盟19か国に拡大しています。現在、2019年3月に英国の離脱後、残留する27か国の結束が問われています。

1967年、欧州の統合を目指し、汎ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いた クーデンホーフ=カレルギー伯爵が日本にやってきました。そのとき、世界の歴史に興味を持っていた私は、伯爵のことを書いた書物を読みあさり、私自身のその後の考え方に、大きな影響を受けることになりました。

伯爵はナチスに追われながらも汎ヨーロッパ運動を推し進め、欧州統合の理念の先駆者となった人です。オーストリア-ハンガリー帝国の外交官として東京に赴任していた父と、日本人の母の間に東京で生まれました。2度のヨーロッパを舞台にした世界大戦を経験しており、世界平和実現のためには、ヨーロッパ統合が不可欠の一歩と考えたのでした。実際彼の考え方はEUの前身であるヨーロッパ経済共同体の成立に結びついていきました。そして、再び日本を訪れたとき、平和憲法を持つ日本こそが世界平和を担うべきであると考えたようです。オーストリア共和国から名誉大銀星勲章と、日本からは勲一等瑞宝章を受勲しています。

伯爵の死後40年経った2012年、ヨーロッパにおける平和に貢献したということで、EUがノーベル平和賞を受賞しました。彼の世界平和への夢がEUという形で実を結びつつあることが認められたのです。グローバル化が進む中、ユーラシアグループが言う「世界のリスク」が「世界のチャンス」に変わることを願い、地域統合の次に、世界の統合による世界平和を夢見ていた伯爵の事を思い出していました。

41. 2018年という年

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2018年という年は振り返ってみれば、いくつもの大きな節目になった日があったように思います。年末にあたり、少し整理しておこうと思います。

1.2018年1月。150年前の1868年、明治が始まりました。明治維新から150年です。元号も明治、大正、昭和、平成と変わり、世の中の様子も変わってきました。鹿児島で生まれた私の父親は明治生まれ、広島で生まれた母親は大正生まれ、大阪で生まれた私は昭和生まれ、そしてテキサス生まれの娘は平成生まれ。思い起こしてみると、それぞれが時代のにおいをまとって生まれ、生きてきたように感じられます。

2.2018年11月11日。100年前の1918年、第1次世界大戦が終結しました。ドイツ、オーストリア・ハンガリー、オスマン帝国が崩壊し、大戦前にロシア革命によって生まれたソヴィエト連邦とともに、帝国主義勢力の再編が起こることになりました。日英同盟に基づいて参戦した日本は戦勝国として、軍事力をさらに強化する一方、関東大震災(1923年)や金融恐慌(1927年)に見舞われる中で、思想・言論・教育が統制されていくことになります。

3. 2018年12月23日。85年前の1933年、天皇陛下が誕生されました。平成最後の天皇誕生日。天皇は象徴として生きてこられたこれまでのことを振り返られて思いを述べられました。

4.2018年12月8日。80年前の1938年、名古屋第一工学校が鶴舞での設置を認可された学園創立記念日です。学校法人中部大学(三浦学園より名称変更)の誕生です。この日には毎年、永年勤続者が表彰されます。今年は40年勤続の2人を含めて、54名の方を永年勤続者として表彰しました。また学園はこれまでに12万人の卒業生を世に送り出しています。

一方、77年前の1941年、学園創立からちょうど3年経った日に、日本軍による真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まりました。終戦の年に、名古屋空襲で学園はすべてを失い、復活するのにずいぶんと年月がかかることになりました。日本では終戦の日に色々な行事が行われますが、アメリカでは12月7日がパールハーバー追悼記念日です。1991年、50周年の日にテキサス工科大学にいるただ一人の日本人教授として、複数のテレビから取材を受けたことを思い出します。

5. 2018年6月1日。75年前の1943年、5万人の人口で春日井は市制を施行しました。現在は31万人となり、そこにある唯一の総合大学として、1万1千人の学生を抱える中部大学が存在します。2006年に連携協定を結び、市と大学は学生・教職員を巻き込んで様々な活動で連携をしています。春日井ビジネスフォーラムや文化活動等で市長と一緒に挨拶する機会が多くあります。12月に開催された春日井市民第九演奏会は、春日井市、春日井市教育委員会、かすがい市民文化財団と共に、事務局を中部大学においた実行委員会(実行委員長 学長)が主催しました。

2019年がもう目の前です。2019年が中部大学にとってさらなる飛躍となることを期して、新しい年を迎えたいと思います

40. ラムサール条約

週末の午後はよく女房と二人で散歩をして、庄内川の土手に行きます。一度、伊勢湾に注ぐという河口に行ってみようというので、名古屋駅から名古屋臨海高速鉄道あおなみ線に乗って南下、名古屋港に向かいました。

岐阜県恵那市に源を発する流路延長96kmの河口は、あおなみ線野跡(のせき)駅で降りて、歩いて稲永(いなえ)公園に着くと、目の前にありました。庄内川と新川と日光川の河口が交わるところは、大潮の干潮時には最大200ヘクタールもの湿地が広がるという藤前干潟です。川から運ばれた土砂が堆積してできる砂泥地は、約6時間ごとに起こる潮の満ち引きによって、現れたり水没したりするそうです。

我々が着いたときは満ち潮のころで、水位が高く、それでも庄内川と新川の間の細長い島に鳥の姿を確認することができました。干潟の岸にある、野鳥観察館に備え付けの双眼鏡で見ることができました。我々がいる間にも、鶚(ミサゴ)が、翼を羽ばたかせて空中でホバリング飛行を行った後に急降下し、両足で水の中にいる鯒(こち)を捕らえるところを目撃することができました。スタッフの方が鳥の名前と魚の名前を教えてくださいました。そして今日は朝から、数百羽を観察したとのことでした。

藤前干潟は、湿地の保全を目指すラムサール条約湿地に登録されています。ラムサールは条約締結の地であるイランの都市の名前です。藤前干潟では渡り鳥を含めて、約120種類の野鳥が飛来すると言います。シベリアなどの北半球の繁殖地とオセアニアなどの南半球の越冬地を往復するシギ、チドリ類の中継地だそうです。干潟には鳥たちの餌となるカニやゴカイや小魚がたくさんいて、渡り鳥たちにとっての休息と栄養補給の、大切な場所となっています。

野鳥観察館の隣にあった稲永ビジターセンターで、渡り鳥のことを学びました。以前カナダのサスカツーンに住んでいたころ、10月後半だったでしょうか、テニスをしている頭上で、カナダグース(雁)がV字型編隊を組んで飛んでいるのを見たことを思い出しました。冬の餌場を求めて、何百キロも飛んでいくのでしょう。先頭の雁が独特の声で鳴くと、一斉に方向を変えるのです。そのV字型の集団がいくつもいくつも南に向かって飛んでいく姿をしばらく眺めていると、とても感慨深いものがありました。サスカツーンに住んでいた頃お世話になったサスカチェワン大学の高谷邦夫名誉教授が、最近サスカツーンで撮られた写真を、掲載させていただきます。

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名古屋港。庄内川、新川、日光川の河口が交わるところにできた藤前干潟。    

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内川流域図。庄内川流域を緑線で囲む。恵那市にある源から矢印で流路を示し、瑞浪市、土岐市、多治見市、そして春日井市にある中部大学の近くを通り、名古屋市を通って、名古屋港にまで流れ着く。薄い水色は想定氾濫区域で、濃い青色が名古屋港を表している。
[国土交通省河川局「庄内川水系の流域及び河川の概要」(2005)]

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サスカツーン在住の高谷邦夫名誉教授が11月に撮影。高谷先生によると、結構低空で、珍しく逆3角形に飛ぶ様子をとらえたと言うことです。通常は3角形の先端が前になって飛んでいきます。      

39. フランス訪問② フランスの大学

フランスの高等教育機関は大きく分けて、ユニベルシテ(université)とグランゼコール(grandes écoles)になります。高校卒業後、国家試験であるバカロレア(Baccalauréat)資格を取って、高等教育機関に入ることができます。ユニベルシテは3年の学士課程、その上に3年の修士課程、そして3年の博士課程からなります。ユニベルシテは日本の大学制度(学士4年、修士2年、博士3年)に近いので大学と訳されています。

一方、高等専門教育機関であるグランゼコールは通常、バカロレア後に、2年間のグランゼコール準備級(Classe préparatoire)を修了して、それから選抜を経て、グランゼコールで3年間学ぶことになります。おおざっぱに言うと、大学(ユニベルシテ、université)は教養を深めるためにあり、それに対して比較的新しくできたグランゼコールは実践に直結する学問を学び、産業界、官界の指導者養成を目指しているところといえます。今回は伝統的な大学であるペルピニャン大学と、グランゼコールであるボルドー工科大学を訪れました。

今年の春ペルピニャン大学(UPVD, Université de Perpignan Via Domitia)のファブリス・ロレンテ学長が中部大学にいらっしゃった折に連携をすすめる約束をし、今回は私がフランスを訪れ、大学連携協定締結を実現しました。南フランスの小都市ペルピニャンは人口約12万人。ペルピニャン大学は、14世紀にイベリア半島を統治したアラゴン国王により創立された比較的小規模な大学です。法学・経済学、人文学・社会科学、自然科学を学ぶ10,000人足らずの学生で、そのうち留学生は2,500人という国際色豊かなキャンパスの大学です。太陽光発電を中心とする再生エネルギーの研究や生命科学の研究所を見学しました。本部のあるペルピニャンキャンパスから少し離れた旧市街地に、住民との地域連携を図るために作られたという新しいキャンパスがありました。そこにある会場で、大勢の人に見守られる中での協定式となりました。ペルピニャン大学は欧州高等教育圏のエラスムス・プラス計画に参加しており、今後中部大学と交流をすすめます。

ペルピニャンを出て、ドミティア街道沿いに在来線の列車でナルボンヌまで行き、そこから高速鉄道でトゥールーズを経て、ボルドーまで。

人口25万人、ワインの産地として有名なボルドーにある、ボルドー工科大学(Bordeaux INP)エンサーブ・マトメカを訪問。ボルドー工科大学はエンジニアリング系のグランゼコールで、8つの研究科からなり、中部大学は、そのひとつENSEIRB-MATMECA(Electronics, Computer Science, Telecommunications, Mathematics and Mechanics)と、2005年から協定を結んで学生交流を進めているのです。研究科名最初のENSはL'Ecole Nationale Supérieure(直訳すると国立上級学校)から取られています。最も古い研究科はENSCBP(化学、生物、物理)で19世紀末に設立されていますが、ENSEIRB-MATMECAは1920年設立です。最も新しい研究科はENSC(認知心理)で2003年にできています。私が行った中部大学を紹介する講演会には多数の学生が参加してくれました(写真参照)。日本語がしゃべれる人はいますかと聞いたら、誰も手を上げないので、今度は、では日本語を勉強している人はいますかと聞いたら、ほとんどの学生が手を上げるので、日本がこんなにも興味を持たれていることに驚きと喜びを覚えたものです。今後も学生交流が続くことを期待するところです。

フランスではほとんどの高等教育機関は国立で、授業料は基本的に無料です(私立の高等教育機関で学ぶ学生は2014年の時点では約14%)。バカロレア受験率がここ25年間で、35%から66%となり、高等教育の大衆化と共に財政的な問題が起こっているようです。欧州高等教育圏に入るにはボローニャプロセスで規定される枠組みにはいる必要があり、高等教育の質が確保されることが求められます。ボローニャプロセスでは、モビリティという言葉で表されるように、学生と教職員の大学間移動を伴う国際化が推進されています。

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ペルピニャン大学(UPVD)正門を入ったところ。

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ファブリス・ロレンテ ペルピニャン大学学長と私は協定調印前に、出席者の教職員を前にお互いの大学のことを紹介し合いました。

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ペルピニャン大学のPROMES(物質プロセスと太陽エネルギー研究所)。ディディア・オーセル副学長が案内役。

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ペルピニャン大学とボルドー工科大学は、トゥールーズの南東と北西に位置します。

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世界遺産にも登録されたボルドー市街。

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ボルドー工科大学。中部大学の紹介を聞きに来た学生達と。私の右隣がフランソワ・リベ国際センター長、左隣がクレア・エナフ副学長。

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ボルドーはワインの産地。ワイナリー見学。クレア・エナフ副学長とマーク・ファリポウ学長と昼食。

38. フランス訪問① すべての道はローマに通ず

大学間連携推進のために、フランスを訪れました。今回は大学のあるペルピニャンの近くにあるコリウール村について紹介します。

スペインの国境に近い、南フランスの地中海に面した、小さな村コリウール。古い街並みで、道ばたで絵画が売られていたり、狭い路地に画廊があったりして、いかにも芸術家が集まりそうな雰囲気。マティスやピカソもここで絵を描いたそうです。伝統的な建物、港、城塞、教会、尖塔、独特の屋根や通りの街角。スペイン風の建物が多いのは、歴史的に17世紀後半までスペイン領で、ルイ14世が占領してフランスに帰属するようになったからでしょう。

海岸沿いにシャトー・ロワイヤル(chateau royal)を囲む城壁と、ノートルダム・デザンジュ教会(Notre-Dame-des-Anges)があり、海に飛び出した灯台(現在は教会の鐘楼)は、絵はがきや絵画の対象として取り上げられています。日曜日の午後、のんびりと海を見ながらカフェでのひと時を楽しむ人々の姿。街角にあった標識は、ペルピニャンの方角と、近くにあるフランス国有鉄道(SNCF)の駅の方角を示していました。

コリウールはフランスにある最も古いローマ街道の一つ、ドミティア街道の終着点に近いところです。今から2100年前にローマ人はこんな所まで勢力を伸ばしていたことに、改めて思いを馳せます。ローマまでの距離は1,200km、ドミティア街道はローマまでつながっていたのです。確かに、「すべての道はローマに通ず」と言うように、ドミティア街道はペルピニャン、ニーム、ブリアンソンまでつながり、そこからは別の街道がローマまでつながっていました。

紀元前1世紀までに、ローマ帝国は地中海全域を支配した歴史を持っています。「ローマは一日にしてならず」と言われるように、ローマ帝国は、紀元前3世紀から紀元後2世紀にかけて、ローマ街道網を張り巡らし、幹線だけでも80,000km、支線は150,000kmに及ぶものを作り上げたわけです。日本の一般国道の総延長は、66,000kmと言うから、ローマ街道は相当な街道ネットワークです。

翌日、14世紀創立のペルピニャン大学(UPVD, Université de Perpignan Via Domitia)を訪れました。大学の正式名称にドミティア街道(Via Domitia)が含まれていることに、改めて歴史の重みを感じたところです。

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フランスの国境に接する国々。コリウールはスペイン国境近く、地中海沿いに位置する。

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地中海沿いにコリウールの街が広がる。13世紀建造のシャトー・ロワイヤルの城壁が直接海に接している。

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崖っぷちに建てられた古い小さな教会と、大きな十字架が目を引いた。

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コリウール港の灯台とノートルダム・デザンジュ教会の中。
海に張り出した灯台は、中世の時代に造られ、港に戻ってくる舟乗りの目印となった。17世紀に建てられたノートルダム・デザンジュ教会とつながり、 現在は教会の鐘楼となる。

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コリウールの街角の標識。ペルピニャンと、SNCF(フランス国有鉄道)の駅の方角を指している。

37. 月とうさぎ

秋分の日の翌日9月24日、台湾にいるテキサス時代の教え子から「Happy Moon Festival!」のメールが届きました。この日は台湾では中秋節。旧暦8月15日にあたり、春節(旧暦1月1日)、端午節(旧暦5月5日)と並ぶ三大節句の一つです。台湾では月餅を食べて、月見を楽しむ習慣があるようです。

日本でも中秋の名月を愛でる習慣があります。少し曇っていたけれど、夜空高く昇った月はほぼまん丸で、月の表面のうす黒い模様もしっかりと見ることができました。餅をつくウサギを思いながら、双眼鏡で目をこらしてみたのです。ススキがあればいいのにねと女房が横で言うのでした。

月の表面の模様について、子どもの頃持っていた本に、海外では「カニ」と見ていると書いてあったことをいつまでも覚えていました。アメリカで、そしてカナダで、機会あるごとに、月の表面の模様は何に見えるか、聞いてみたのですが、「カニに見える」と言う答えは返ってきたことがありませんでした。それよりも、どうやら、カナダやアメリカでは月を愛でるという習慣は無いように思えました。表面の黒い模様は、野尻抱影の『星三百六十五夜』によると「日本で兎、中国でガマ、西洋でカニや女の顔」とあります。9月23日の朝日新聞の天声人語では、「海外では大きなカニ、本を読むおばあさんと見立てる」とありました。

本学園理事長の飯吉厚夫先生が指摘されたように、芭蕉が月を愛でて俳句を詠んだころ、同年配のニュートンは万有引力の法則を思いついたようです。このことに象徴されるように、東洋と西洋の文化の違いを感じるところです。吉田拓郎の歌も思い起こします ♪♪♪ああ風流だなんてひとつ俳句でもひねって ♪♪ ひさしぶりだね 月見るなんて♪♪♪。

月はいつも丸いだけではなく、満ち欠けがあります。そして月の表面が平面でただ光り輝くだけだったら、こうも感慨深く、人々は月を眺めることもなかったかもしれません。古代中国では天女が住んでいたとも考えられて、日本では竹取物語のような美しい文学にもなったことに想いをはせます。

陰暦でも季節があまり狂わないように、閏月をおいたりして調整するようですが、それでも日付と季節がかなりずれるようで、9月の満月は25日になります。月は毎夜30分程度遅れて昇ってきます。旧暦に戻って、十五夜の翌日は、月の出が少し遅くなって、ためらうようにして顔を出すので、十六夜(いざよい)の月、そして十七夜は立待ちの月、その次は待ちくたびれて座って待つと言う居待ちの月、十九日になると臥し待ちの月。昔からお月様を心待ちにして、そして昇ってきたお月様を見て、物思いにふける、われわれにはそんな文化が根づいているのでしょう。

4年前に訪れた英国オックスフォードのアシュモレアン博物館で見た月の絵を思い出しました。1795年にジョン・ラッセルによって描かれたという月は博物館の階段の壁に掛けられていたのです。表面のうす黒い模様も描かれた月の絵の前で、しばらく佇んでいました。描かれた黒い模様は現実の写真と照らせてみて、実に精巧に描かれていることを知り驚きです。いろんな角度から写真を撮ることを試みたのですが、結局天井からつるされたシャンデリアがガラスに反射して、映り込むのを防ぐことができませんでした。

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ジョン・ラッセルによるパステル画「Portrait of the Moon」(1795)。世界最初の大学博物館として知られるオックスフォードのアシュモレアン博物館(1683年設立)にて、201496日筆者撮影。

36. 火星大接近

人間に火星近づく暑さかな (1940、萩原朔太郎)

7月31日には火星大接近が話題になりました。地球と火星が大接近するのは、ほぼ15年ごとの7月ごろにやってきます。朔太郎が俳句を詠んだ前年にも大接近が起こっています。

明るく赤く輝く火星のその色をみて、炎と血を連想したのでしょう。日本では火星のことを古来「炎星、焔星(ほのおぼし)」と呼び、エジプトやバビロニアでは軍神とされています[ギリシャ神話でAres(アレス)、ローマ神話でMars(マーズ)]。火星は、地球と同じように太陽の周りをまわる惑星ですが、地球から見ると天球上で星座の中を動いていきます。大接近前後の火星は星座の中を東から西へと動いていたのが、一か所に静止したかと思うと、今度は西から東へと反対向きに動き出します。まるでうろちょろするかのように動くために、惑星(惑う星)〔英語でplanetの語源はギリシャ語の放浪者を意味する言葉〕といわれるのです。この動きを見出したコペルニクスが地動説を唱えることになるきっかけとなりました。

1939年の大接近から、5回目の大接近である2018年の今年、異常な酷暑と不規則な台風に悩まされ、8月が終わりに近づいてもまだ記録的な暑さが続いています。

夕空を見上げると、丸い月が東の空を昇ってきます。まだ真っ暗にならない空に見える明るい星は惑星です。この8月は4つの惑星が同時に見える、珍しい機会です。今月の新月は8月11日、満月は8月26日。月は天球上で惑星の間を通り過ぎてきました。8月14日に三日月が金星と並び、17日には上弦の月が木星と、21日に土星、23日には火星と、次第に満ちていく月が日を追って惑星と並んだのです。今日はほぼ丸い月が、日が沈むころ、東の空に顔を出しました。地球も惑星で太陽の周りをまわっているのですが、地球から見ると太陽は天球上の星座の中を大円を描いて動いているように見えます。太陽の通り道である黄道に沿って、月、火星、土星、木星そして西の空低く金星が並ぶことになります。まるで大きく金色に輝くお月様が家来を従えているように。

ギリシャ神話では月の中に美しい女神を見たようです。月の女神セレネSeleneはローマ神話ではルナLunaとして登場します。(ギリシャ神話の狩猟の女神アルテミスArtemis(ローマ神話のDiana)は後にセレネと同化することになります)。ギリシャ人は惑星を神としてみていました。火星は軍神アレスAres(Mars)、土星は農耕神クロノスCronus(Saturn)、木星は全能の神ゼウスZeus(Jupiter)、そして金星は愛と美の女神アフロディテAphrodite(Venus)。括弧の中に記した英語で言う惑星の名前はローマ神話の神々の名前から来ているものです。

春日井では台風が去って、明日の午後には再び35℃まで上がる猛暑となります。朔太郎の、地球に近づく火星ではなく、『人間に火星近づく暑さ』との表現が、時代を超えてこの酷暑を言い表しているように思えます。

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南の空を見れば、黄道(天球上の太陽の通り道)に沿って、月・火星・土星・木星・金星が並んでいる。  

35. フレッシュマンキャンプ

酷暑の中のオープンキャンパスの最終日8月7日は暦の上では立秋。9千人を超す来訪者を迎えて大いに盛り上がったキャンパスをあとに、新穂高に向かいました。岐阜県の高山を越えて、西穂高のふもとにある中部大学新穂高山荘に到着すると、そこは木に囲まれた快適な空間です。自分たちで昼食用に作った穂高なべを食べ終えて、かたづけ中の学生さんと教職員が迎えてくれました。前日には西穂高口から、標高2,462mの西穂丸山まで一人の脱落者もなく登頂に成功したと報告を受けました。今年のフレッシュマンキャンプは天気に恵まれたようです。

今回は第57回フレッシュマンキャンプです。中部大学は4年前に開学50周年を迎えました。 開学54年なのに第57回となっているのには歴史的な背景があります。中部大学の前身は1964年開学の中部工業大学です。その前には、春日井の地に2年間だけですが中部工業短期大学があったのです。その時、学生の希望により『野外教育活動』として、長野県にある志賀高原で学生が自主的に企画実施し、教職員がサポートするという形で、キャンプを始めたのです。最初は1年生だけでしたが、上級生がリードするようになって次第に現在の形になっていきました。1960年代終わりには、かなり今の形に近いものが出来上がり、キャンプファイアの前にトーチ棒を自分たちで作ること、火の周りで『遠き山に日は落ちて』を歌うことや、スタンツといった学生による創作出し物も50年前に取り入れられていたのです。本学独自の「山の家」の所有を望む、学生の気持ちにこたえて、1970年に本学は新穂高に山荘を購入し、1974年第13回目にしてフレッシュマンキャンプは志賀高原から、新穂高に移ることになったのです。1984年、総合大学の中部大学となってからも、伝統は続きました。ただし、毎年、今年のようないい天気に恵まれたわけではなく、時に大雨にたたられて、すべての行事は室内で行うといったこともありました。その中で、予期せぬ場合に備えて計画するということも、上級生のリーダーは学んでいったように思います。

上級生のリーダーシップ、それに答えた1年生、見守りながら一緒になって楽しんだ教職員。キャンプファイアの終わりには、大きなファイアを囲んで、カウンセラーの教職員の皆さん、リーダーの上級生の皆さん、フレッシュマン、みんながつながっていると感じ、喜びと感動の涙を流していました。これからも、伝統を受け継いで、中部大学ファミリーの一員としての誇りをもってたくましく成長していくことでしょう。

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左から 中部大学新穂高山荘での夕飯、キャンプファイア、山荘グラウンドで集合写真。
(写真は中部大学公式Facebookより)

34.土用三郎

暑中お見舞い申し上げます。
先日友人から暑中見舞いの葉書をいただきました。
7月20日に土用入りが始まり、8月6日で土用明けとなります。夏ばてが心配される時期でもあり、暦の上で最も暑さが厳しいとされる土用です。メールが当たり前となり、暑中見舞いの葉書をやりとりすることが少なくなりました。今年の夏は30年に一度もない異常気象と言われ、夏ばてというよりも、もっと深刻な熱中症という言葉が毎日聞かれるように思います。

酷暑という言葉から、1等星シリウスを思い浮かべ、古代エジプトを連想します。古代エジプトで、毎年決まってやってくるナイル川の氾濫を、シリウスの観測を通して予測したというのです。シリウスが日の出前に現れる日、そして再びその日が巡ってくるまで、1年は365日という暦を作り上げたのです。シリウスが日の出前に現れると、暑い夏の始まりです。

おおいぬ座の口の所にあるシリウスは、ギリシャ語で焼き焦がすものと言う意味で、英語で「Dog star」とも呼ばれています。シリウスは日本で言う土用の頃、日の出の直前に太陽に先んじて地平線に現れ、昇りだして、昼間も太陽のそばにあり、二つ並んで強い光が大地を焦がし、炎暑をもたらすと昔の人は考えたのでしょう。英語で最も暑い頃をDog daysと呼んでおり、これが日本語で言う土用にあたる時期と重なります。

日本では暑い土用の一日目を土用一郎と呼んだそうです。漁村では、シリウスが昇るより1時間ほど前の、空が白みはじめる東の沖のほうに、土用一郎の日に一つ昇り、二郎の日に次の一つ、三郎の日に三つ出そろうと言ったそうです〔野尻抱影著「星365夜」による〕。これはオリオンのベルトに当たる三つ星で、東の空から昇るとき、縦に三つならんで現れます。天の赤道上にあるため、三つ星が昇るのが正確に東にあたります。この三つ星のことを、「土用の三つ星様」と呼ぶ地方も有るようです。明け方の東の空にこの星が昇る頃、酷暑の土用がやってくるのです。

8月3日午後、名古屋では128年間の観測史上初となる40.3度を記録したという。まさに灼熱の夏。8月7日は暦の上では立秋、それでもまだまだ猛暑は続きそうです。夏の炎暑、酷暑というより、もっとひどい今年の異常な暑さです。立秋を過ぎれば、時候のあいさつは変わります。
残暑お見舞い申し上げます。

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白みはじめる東の空に、土用三郎の日にはオリオン座の三つ星が出そろいます。
そして日の出直前に、太陽に先駆けてシリウスが昇ってくる。今年は灼熱の夏。

33. 名古屋グランパス

豊田スタジアムで、日本サッカーJリーグ名古屋グランパス対サンフレッチェ広島の試合を観戦しました。7月22日、日曜日の夕方とはいえ、まだ40度近い気温の中、2万人を超す観客の前で試合が行われたのです。

試合に先立って、名古屋グランパスと中部大学がパートナー契約を結んだことにより、インタビューを受けました。中部大学の生命健康科学部の救急救命士を目指す学生さんが救護ステーションの運営に携わり、彼らと、ちゅとらも一緒にインタビューに応じたのです(写真)。インタビューの最中にも、中部大学の学生さんがスタジアムの巡回をおこなっており、バックスタンド側、ゴール裏とインタビュアーの呼びかけに応じる姿が、大画面に映し出されました。

西日本豪雨から2週間、被害のあった広島からも大勢のサポーターが詰め掛け、試合の最初には黙祷をささげることから始まりました。名古屋グランパスのマスコットであるシャチ(鯱)のグランパス君も、応援していました。

現在J1リーグ首位のサンフレッチェ広島を相手に、11回のシュートを試みる。そのうちの1回はゴールが決まったかと喜んだのも束の間、オフサイドの判定。後半はさすがにこの暑さの中で、選手の足も動きが止まるようにも思えました。ゴールキーパーのランゲラック選手が広島の15回のシュートを抑えて、結局0対0で引き分け。

暑い中、スポーツ保健医療学科の北辻耕司先生の指導の下で、試合前からスタジアムの中を巡回し、熱中症で気分が悪くなった方々の救助に当たった中部大学の救急救命士を目指す学生さん達に拍手です。

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中部大学と名古屋グランパスがパートナー契約を結び、試合開始前インタビューに応じる。

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20,200人を超す観客は猛暑の中の戦いに、最後まで応援を続けていました。

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