学長ブログ

32. 人文学部設立20周年

中部大学は4年前に50周年を迎えたのですが、今年は人文学部設立20周年記念の年となります。6月27日、三浦幸平メモリアルホールで、人文学部設立20周年記念イベント「人文学部でよかった?!」 が開催されました。534人収容のホールはほぼ満席で、オープニングとしてスクリーンに投影された、20周年のために制作されたプロジェクションマッピングが、強烈な印象を与えました。これはプロの映像作家であるコミュニケーション学科卒業生により制作されたもので、挨拶に立った先輩の姿は、在学生にとっては、一つの目標となったように思います。

卒業生によるトークセッションでは、5学科の卒業生が、在籍時の思い出や、現在の自分を語って、学科の特徴を浮かびあがらせてくれました。現在中部大学の職員として学生を支援する側にある日本語日本文化学科卒業生、中部大学の教員として活躍する英語英米文化学科卒業生、卒業後様々な分野で活躍し同窓会理事も務めるコミュニケーション学科の一期生、現在高知県でスクールカウンセラーとして活躍する心理学科卒業生、旅行業界で働き同窓会理事としても活躍する歴史地理学科卒業生。
人文学部ができた背景を振り返って見ましょう。第2次ベビーブームで、女子学生の大学進学、特に短大進学が急増している1985年頃、春日井市には、中央線沿線に中部大学があるだけでした。我が学園は、春日井市の要望を受けて、女子短期大学の開学を進めることになったのです。短大として、日本語日本文化学科、英語英米文化学科の2学科構成で、1989年に中部大学女子短期大学が開学しました。
     
この春日井の丘で、現在の人文学部がある場所に、すべての建物の外観がベージュ色のタイル張りで統一され、曲線を用いた優美な建物を持つ短期大学ができたのです。円形の噴水、その中央に清水多嘉示先生制作のブロンズ像「躍動」が設置されました。周辺には、芝生を敷き詰め、さまざまな樹木と潅木が植えられました。

短大開設から10年、社会は予想を超える速さで変化していき、4年制大学へ進学する女子学生の増加にともなって、短大進学希望者は激減していくのです。日本の社会情勢はバブル経済が崩壊し、阪神大震災と地下鉄サリン事件(1995)があり、100年の歴史を持つ山一証券の破綻(1997)があり、不安定な状態になっていました。世界に目を移すと、湾岸戦争(1990)、ロシア連邦の誕生(1991)と、ソビエト連邦の解体に伴って起こった旧ソ連地域における混乱。まさに20世紀の終末は、混迷の時代に入っていったと言えるでしょう。

こうした時代背景に、現代的な視点から「人間」を問い、混迷した時代に柔軟に対応できる人材の育成を目指し、「人間(わたし)を探そう」をキーワードにして、1998年に人文学部が誕生することになったのです。

従来の人文系学科で使われていた、「国文科」「英文科」ではなく、「日本語日本文化学科」「英語英米文化学科」としたことは、これまでの伝統的な枠組みを超えて、より広い言語を巡る領域や、文化をも包含する意図を示していたものといえます。「コミュニケーション学科」は、メディアの世界に、社会学、言語学、そして心理学からのエッセンスを持ち込んで、人と人のコミュニケーションの問題の本質に取り組むことを目指したものでした。

コミュニケーション学科より分かれて、2002年には心理学科、さらに2004年には歴史地理学科が新設され、現在の5学科体制が完成したのです。 現在1,714名の在籍者がいて、2018年3月までに、5,322名の卒業生を世に送っています。

今20年経った人文学部は、人間そして人間文化について学び、未来の人間社会のあり方を考えるあらたな出発点にあるところです。21世紀に入って、グローバル化が進行し、日本そして世界では、様々な問題が顕在化してきているようにも思えます。

人間というものを見つめ、人文科学の視点に立って、広い視野で俯瞰的な目を持って、これからの社会を考えていくときが来ているように思えます。人文学部は、柳谷啓子学部長を先頭に、この20周年を機に、さらなる展開を図ろうとしています。

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三浦幸平メモリアルホールを埋めた人文学部設立20周年記念イベント
開会にあたって、20年前、人文学部ができた経緯を話しました

31. 飛騨高山

6月23日土曜日朝、春日井から東名・名神高速道路を経て、東海北陸自動車道を北に行く。木曽川を渡ると岐阜県。関、美濃、郡上と長良川に沿うように北上し、ひるがの高原に着く。ひるがの高原は分水嶺になっていて、ここから流れる水は一方は太平洋へ、もう一方は日本海へ注ぐことになる。そこを過ぎて高山市に入ると、日本の高速道路の標高が最高地点である松ノ木峠(1,085m)を通る。そこから下りになって、高速道路をおりて市街地へと入っていく。

高山市は2005年の合併により、日本一広い市となり、その面積は春日井市の23倍もあり、東京都とほぼ同じくらいです。豊かな山林地帯にあり、日本の伝統的なたたずまいを残し、外国人観光客にも圧倒的な人気を誇るところです。しかし、合併時の人口は10万人近くだったのが、今では8万9千人。着実に人口減少・少子高齢化の波が押し寄せているようです。

高山市役所に到着して、すぐに「第18回中部大学ESDシンポジウム「持続可能な地域のあり方を考える」~「高山学」をめざして~」が始まりました。中部大学の教員、学生、高山市の職員や市民で100名以上が参加しました。

中部大学は近隣の自治体と、積極的にかかわっています。大学は人々の学びの拠点であり、また現代の地方が抱える問題について、地方創成にかかわる知恵を出し合おうと思っています。中部大学と高山市は、連携に関する協定を締結しており、このシンポジウムもその活動の一環です。中部大学では多くの教員が高山という自然豊かで、日本の伝統文化をもつ地域を研究対象にしており、今回もシンポジウムには多数の教職員が参加しました。

前学長山下興亜先生の講演のあと、教員と高山市職員によるパネルディスカッションでは、地理学、森林管理、高山の産業・社会・文化の歴史、防災と地理情報システム(GIS)、耕作放棄田、持続可能な発展のための教育(ESD)といったことをテーマに意見交換がなされました。

江戸時代、飛騨高山の金・銀・銅・木材等の豊富な資源に幕府が目をつけて、飛騨高山は天領となり、独特の文化を形成しており、最近では、高山祭の屋台行事が、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。また県立高山高校卒の白川英樹博士が、ノーベル化学賞を取っています。一番前の席で、シンポジウムでの様々な議論を聞きながら、國島芳明市長と共に、これからの中部大学―高山市の連携を通して、持続的な地域の発展について共に考えていきましょうと、語り合ったところです。

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岐阜県高山市役所大会議室で開会のあいさつをする

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30. かこさとし(子どもに学ぶ)

1926年生まれの、中島哲博士が、この5月2日に92歳で亡くなられました。絵本作家「かこさとし(加古里子)」として知られた先生は、死ぬ直前まで執筆活動を続けられていました。前回のブログ『29. かこさとし(絵本作家との出会い)』に続き、加古先生が、残された我々に伝えようとされたことを、私が持っている、加古先生の書かれた本を中心に追ってみようと思います。

とこちゃんはどこ.jpg 『とこちゃんはどこ』(松岡享子/作 加古里子/絵 福音館書店、1970)

私がカナダにいるころ、長女誕生のお祝いで、友人から送られてきたのが、加古先生が絵を描かれ、松岡享子さん作の『とこちゃんはどこ』でした。我が家の子ども4人は、とこちゃんが大好きでした。加古先生の絵本は、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(1967)や、『からすのパンやさん』(1973)など、子どもの心をつかんではなさないものでした。加古先生は、会社勤めのころにかかわったセツルメント活動を通して、紙芝居を作って子ども達に見せ、子どもは鋭い観察者であることを、身をもって体験していたのです。紙芝居をしていて、内容がつまらないと、一人減り、二人去り、誰もいなくなってしまう、そんな経験によって、子供の心をつかんで離さない、加古先生の独特の絵本の世界ができあがっていくのでした。

『遊びの四季 ふるさとの伝承遊戯考』(加古里子/絵・文 じゃこめてい出版、1975;復刊ドットコム、2018)

加古先生は、セツルメント活動を通して、子どもから遊びを教わっていきます。子どもは、加古先生の言葉を借りれば、「人格を持っており、大人と同格でありながらも、子どもは成長し、時間とエネルギーを浪費、空費、乱費した挙句に、バタンキューと眠ってしまいます。」加古先生は子どもの遊び事例を徹底的に集め、そこから生きている子どもの姿を、浮かび上がらせたのです。私自身、小学校の校庭で、地べたに座り込んで「地面取り」に興じた記憶があり、珠算塾の仲間と「ゴムひもとび」に興じたことを思い出します。エノコログサ(ネコジャラシ)の穂は、手のひらで作った筒に逆向きに入れて、指を小刻みに動かしてしごくようにすると、その穂は下から上に昇っていき、するすると手の筒から出てくる様子を、毛虫だぞーと言って、友達をからかったことも覚えています。そうした事例もたくさん出てきます。

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「絵描き遊び」の文字絵(筆者による)

加古先生に対するインタビューをもとに構成され、1999年に出版された『加古里子 絵本への道―遊びの世界から科学の絵本へ―』(福音館書店、1999)には、絵本の修行時代からの話が載っています。第1章で紹介される「絵描き遊び」の文字絵で、「へのへのもへじ」は、私も小さいころよく描いたものです。「このつらてんぐ」は天狗の目と大きな鼻、「ヘマムショ入道」は坊主頭の入道の小さな顔と耳、目、とがった鼻、口とあご、目を細めてみないと、なかなかわからないかもしれません。絵本の表現法から、科学絵本に取り組む姿が、語られていきます。

かわ.jpg 『かわ』(加古里子/作・絵 福音館書店、1966)

1966年に出版された『かわ』は 「たかい やまに つもった ゆきが とけて ながれます」ではじまり、そして谷川となり、発電所では電気を起こし、人々の暮らしの一部となって、大海原に注いでいきます。「うみを こえて いこう。ひろい せかいへ―」で終わります。鳥の目と虫の目を使って、川の全容が描かれており、子どもだけでなく、大人になった我々にも、好奇心と探究心を呼び戻してくれます。総合的に、俯瞰的に描く、かこさとし科学絵本の誕生です。

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『海』(1969) 『地球』(1975) 『宇宙―そのひろがりをしろう―』(1978)
( 加古里子/文・絵 福音館書店)

1969年に出版された『海』は、「みなさんはうみをしっていますか。」で始まり、「あなたも うみを しらべて たんけんして、 そして うみを すきになってくださいね。」で終わります。波打ち際から始まり、少しずつ深い海へと、そして遠くの海へと、正確な数値データと共に描かれていて、子どもの時に読んでも、大人になっても、読み返したい絵本です。

1975年に出版された『地球』は大型の科学絵本。地表から地球の中心部にわたって描かれています。地球の巨大なエネルギーが地球を変えていく―「それにしても、わたしたちがすんでいる この ちきゅうのなかの ふかい ふかい おくで おおきな がんせきのながれが ゆっくり ゆっくり めぐっているということは なんと すごいことでしょう」

私が講義や、特に小学生向けに行う講演の中でも使わせていただいている『宇宙―そのひろがりをしろう―』は1978年に出版されました。加古先生が、「この一冊の本をまとめる作業時間ほしさに、25年勤務した会社を退いた」と、言っておられるだけあって、内容は科学的な実証にもとづきながらも、夢のある絵本として描かれています。「もう わたしたちの うちゅうせんは ちきゅうから なん10まんキロメートルも はなれた ところへ やってきました。ここまでくると たかいと いうことと とおいと いうことが おなじになってしまいます。」 最後の締めくくりは、「この ひろい うちゅうが あなたの かつやくするところです。では うちゅうのはてから おわかれします。さようなら!」

1996年に出版された『小さな小さなせかい』(偕成者、1996)では、10-1mの世界から、10-35mの世界まで紹介されます。最後のページでは量子宇宙が語られるのです。絵本の世界においても、実に科学的に正確に描かれているのです。締めくくりは「約140億年前のあるとき、10-35mの小さな小さなせかいにゆきつきます。」なんとこれは、先日、加古先生の亡くなる49日前に亡くなったホーキング博士の語る量子論的宇宙の世界のことではないですか!ホーキング博士が追い求めた量子論的宇宙から古典物理学的宇宙への物語が、加古先生によって絵本の世界で見事に語られているのです。

同じ年に出版された『大きな大きなせかい』では、10-1mの世界から、1027mの世界まで紹介されます。締めくくりは「光の速度でひろがっている宇宙が、いま知ることができる、いちばん大きくひろい世界となります。そうした世界で、わたしたちは生き、考え、くらしているのです。では、宇宙のはてから、みなさん、さようなら」

私は、テキサスで、そして日本に帰ってきてから横浜で、大学生、大学院生を相手にプラズマの講義をして、その講義ノートを一冊の本として出版しました。『プラズマ物理科学 フェムトからハッブルのプラズマ宇宙』(電気書院、2014)。そこでは第1章が「10-19mのプラズマ宇宙 クォーク・グルーオンプラズマ」で、小さな小さなプラズマ宇宙から始まり、最終章の第6章は「1026mのプラズマ宇宙 加速膨張する宇宙、コンプレックスプラズマ」で、大きな大きなプラズマ宇宙を扱っています。しっかり、加古先生の影響を受けているように感じています。

『ならの大仏さま』(福音館書店、1985; 復刊ドットコム、2006)         

1985年に出版された『ならの大仏さま』のあとがきに、加古先生は、「広い科学的な立場」をとったこと、「心や宗教」のことも含めたことを強調されています。自然科学と社会科学両面から検討考察を加えたと言っておられます。それによって「どうして大仏を建てたのか」を絵本の中で、答えていこうとされたのです。聖武天皇と光明皇后の時代から昭和に至るまで歴史的な背景とともに、語られていきます。加古先生は言います。「大仏の建立者は誰かを簡潔に覚えさせようと、二者択一の方法で追い込めば、クイズまがいの知識となり、それが「学力」として横行することになります。」『ならの大仏さま』には、1000年以上の出来事と、主要記載人物73人と、画面登場3,000人が入り乱れて、描かれているのです。

ピラミッド.jpg 『ピラミッド●その歴史と科学●』(加古里子著 偕成社、1990)

1990年出版の『ピラミッド●その歴史と科学●』では、ピラミッドの構造、建造に使った道具、エジプトの神々の系譜、当時の人々の暮らしぶり、歴史が見事に、児童に向けた絵本として出来上がっています。複雑で、大人でも理解が難しいと思われる歴史や科学のことも、子どもをひとりの人間として考えるからこそ、正確に、そしてわかりやすく記述されているのがわかります。

万里の長城.jpg 『万里の長城』(加古里子/文・絵 常 嘉煌/絵 福音館書店、2011)

2011年に出版された『万里の長城』。加古先生の書かれたあとがきと、本の発表時のインタビュー(読売新聞、2011年6月)の中から、先生が『万里の長城』を描かれた意図を感じ取ることができます。地球や生命の誕生、人類の誕生から遡って話は語られます。紀元前3世紀、中国を統一した秦の始皇帝が、北方の遊牧民族の侵入を防ぐために、騎馬が超えられないだけの高さの土で長城を作りました。漢の時代になると西に延長され、その関所を守る部隊が派遣されていくのです。長城の近隣に居住する人々の動向を知り、それに対応していくことが重要な事となっていきます。次第に長城は異民族の侵入を防ぐためと言うより、異民族同士が交流し、社会や文化のつなぎ役としての役割を果たしていきます。加古先生は長城が、現在世界で起きている民族対立、民族紛争を解決するための、具体的解決事例を提供しており、そこに学ぶべきことがあり、異文化や異民族が共存する道を示唆しているとおっしゃっています。

未来のだるまちゃんへ.jpg 『未来のだるまちゃんへ』(加古里子著 文藝春秋、2014) 

加古先生は、『未来のだるまちゃんへ』の中で、「震災と原発」について語っておられます。「研究所にいた折、原子力についても研究対象であったので少しばかり関係していたのですが、そのとき得られた技術範囲、エネルギー効率、経済性、研究成果などが40年後も少しも前進が見られていないのに、巨額が投資される理由はなんなのでしょうか」

加古先生は自分の思いを述べられます。「僕自身、敗戦後70年近く経ったのに、的確な「戦争」の絵本、非戦の絵本を描く見取り図ができていないのが恥ずかしいかぎりです。あと余命がどのくらいあるのかわからないし、果たして間に合うのかどうか。しかし、なんとしても間に合わせねばと思い続けているのです。」

戦争の本質を描く試みは、何度も企画を立てては自らボツにしたそうです。「大往生とはいえ、その1冊を読みたかった。」と書いたのは、朝日新聞の天声人語(2018.5.8)です。私も、まったく同感ですね。

加古先生が、最後の章で、「これからを生きる子どもたちへ」、こんな風に言っておられることが印象的です。
「大人の持っている尺度で、『これに合わせろ』と言っても、それは今どきの大人並みにはなるかもしれないけれど、それを超える力にはならないでしょう。」
「『誰かに言われたからそうする』のではなく、自分で考え、自分で判断できる、そういう賢さというのを持っていて欲しいのです。」

加古先生は、こどもの遊びから学び、こどもの観察する力の鋭さに学び、絵本を通してこどもの心に入っていこうとされました。人類が来た道を、その歴史を、人間の営みを、人間が作り上げ、明らかにしてきた自然の仕組みを、そして科学を、観察力の鋭いこどもに話すように絵本を作り上げてこられました。そこには人間が生きる喜び、宇宙の中で、この素晴らしい自然の中に生きる人間の喜びを、伝えようとされたのだと思います。

29. かこさとし(絵本作家との出会い)

絵本作家として知られた、かこさとし先生は、1926年3月31日に生まれ、この5月2日に亡くなられました。92歳でした。

2008年12月5日、かこさとし先生は「絵本作家、児童文学者としてのユニークな活動と、子供の遊びについての資料集成『伝承遊び考』全四巻の完成」により菊池寛賞を受賞されました。東京・ホテルオークラで菊池寛賞贈呈式があり、授賞式に招かれた私は、受賞者のテーブルで、かこ先生の隣に座って、家族と一緒に先生の受賞を共に喜ぶ機会に恵まれました。かこ先生は終始にこやかにしておられながらも、頸腰椎症で執筆活動が滞っていると話され、奥様は、かこ先生は目がさらに見えにくくなっているのに、紙に顔を近づけながらも絵を描いているとおっしゃっていました。高校で教えておられた長女の万里さんは、そのときには加古総合研究所にはいり、かこ先生をサポートしていらっしゃいました。

かこ先生との出会いは、私が先生に手紙を書いたことがきっかけです。すぐに先生から手紙をいただいて感激したものです。私は大学でのプラズマの講義や一般向けの講演の中で、かこ先生の絵本「宇宙―その広がりを知ろう」を紹介しています。美しい地球の絵、地球の周りを飛んでいる衛星の絵、地球を離れて描かれる宇宙は、科学的にも正確で、かつ見ていてわくわくする大好きな絵本でした。

かこ先生は少年時代、軍人になろう、航空士官になろうと思ったそうです。当時日本は軍国主義の時代で、日本が太平洋戦争に入っていった頃のことです。かこ先生は航空士官になるための学校に入ろうとしたけれど、近視がひどかったために、望みはかなわなかったそうです。高校では、俳句を作り、俳号を「かこさとし(加古里子)」と名乗ったそうです。かきくけこの「かこ」で、父親から名付けられた哲をひらがなで「さとし」。

終戦の年1945年4月、東京大学工学部化学科に入学。19歳の8月、大学1年生で敗戦を迎えます。かこ先生は考えます。自分は近視でなければ、軍隊に入って飛行機に乗っていたであろうと。そして実際に、共に軍人を目指した級友達が皆、特攻機で死んでいったことを思うと、かこ先生の心には深く、『自分は死に残り』だという思いが消えず、その後の生き方を決定づけることになるのです。多感な青年時代を戦時期に過ごされたわけで、戦後生まれの我々には、計り知れない思いがあるのでしょう。

先生は東大卒業後、昭和電工に入社。研究所で化学研究に没頭し、1962年には工学博士となっておられます。会社に勤めながら、子供の世界に入り、子供の遊びを研究し、絵本作家としての道を歩み始めることになるのです。

かこ先生の言葉を借りれば、「真に科学的な科学の絵本を作る」ために、1973年に昭和電工を退社し、仕事場を兼ねた新居を構え、アトリエを増設して、加古総合研究所を設立されたのです。多くの絵本を描きながらも、10年がかりで、「宇宙―その広がりを知ろう」を完成。先生は1980年代に、絵本を描くかたわら、大学(東大、横浜国大)で児童行動論の授業も教えておられました。

先生は中学校から近視がひどかったのですが、1970年代後半に緑内障を患うのです。それ以来、左目はどんどん悪くなり、ほとんど見えなくなっていきます。そして近視の右目も、晩年には手の平ほどの視野しか残らない状態となっていきます。それでもかじりつくように描き続け、創作意欲は衰えることなく、90歳を超えても描き続けられ、生涯に600冊に上る児童書を含め、700を超える作品を出版されたのです。

かこ先生のご冥福を祈ると共に、先生との交流の思い出を大切にして、残された者として、かこ先生の非戦への思い、将来を担う子どもたちへの思いをすこしでも受け継いでいきたいと思っています。

28. ホーキング(宇宙論)

私が1988年に出版された『A Brief History of Time(日本語訳:ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで)』を読んだのは、まだテキサスにいるころで、これほどまでに科学の面白さを語れるものかと、一気に読み終えたことを覚えています。ホーキングの「最後の論文」が発表されたので、これまでの彼の宇宙に対する考え方を振り返って、「最後の論文」に近づいてみようと思います。

ホーキングは大学院生のころ、重い星が自分の重力によって崩壊し、光さえ出ていくことができないブラックホールに興味を持ったようです。ブラックホールの中心には、数学的に言うところの特異点(singularity)が存在することが知られていました。ブラックホールの特異点問題を宇宙に適用し、宇宙全体はあらゆる可能性が凝縮したひとつの「点」、つまり特異点から始まったと考えたのです[1]。1966年、ホーキングはケンブリッジ大学での博士論文を「Properties of Expanding Universes」として提出しています。ホーキングはUniverseではなくUniverses と書いているのです。なぜ、それが複数形になっているのか。その答えが、彼の死後発表された「最後の論文」にあるように感じました。

我々の宇宙が誕生して138億年。現在の観測可能な宇宙は、膨張を続けていることが、明らかになっています。最近の宇宙関連のノーベル物理学賞をあげると、宇宙背景放射(1978)、COBEによる宇宙背景放射の揺らぎ(2006)、宇宙の加速度的膨張(2011)、重力波観測(2017)。現在の宇宙空間には密度が高いところと低いところが混在しています。宇宙は膨張しているので、時間を過去に戻してみると、宇宙は現在よりも小さくて、密度はもっと高くて、均一だったと考えられます。宇宙は超高密度・超高温の状態で生まれ爆発的に膨張したとする「ビッグバン」モデルは1940年代に提案されています。

1970年に、ホーキングは一般相対性理論の枠組みで、ビッグバン特異点が存在することを示したのです [2]。ホーキングはブラッホールでも論文を発表し続けています。なかでも画期的だったのは、ブラックホールからの熱的な放射により、ブラックホールは質量を失い蒸発することを示したことでしょう[3]。1981年には、宇宙初期には指数関数的な急膨張が起こったとする「インフレーション」モデル(inflationary universe)が提案されていました。物価が継続的に上昇する経済用語のインフレから命名されたものです。

ホーキングは、もし特異点が非常に小さい点ならば、アインシュタインの一般相対性理論が含まれるような古典物理学ではなく、ミクロの世界を記述する不確定性原理を含む量子論が適用されるべきだと考えていました。ホーキングはバチカンで行われた宇宙論会議で、宇宙に存在する物質は、インフレーションが起きているなかで、量子効果によってつくられ、時空の過去には境界が存在しないと主張しています。つまり時空に始まりはないというのです [4]。1983年、ホーキングは宇宙の無境界量子状態を量子力学の波動関数で表すことを提案します [5]。これで宇宙の初期を表す数学的準備ができたのです。

ホーキングは言っています。「多くの人が宇宙はビッグバン特異点で始まったと思っています。でもそれは私が言いだした結果なのかもしれませんが、今となっては、宇宙の始まりには特異点なるものは存在しなかったと、訂正しなければなりません。」(Chap. 3, A Brief History of Time)。 

量子論によると、真空中では粒子と反粒子という対の粒子が生まれては消えるため、「真空のエネルギー」が、宇宙が最も安定した時のエネルギーと考えられています。量子論に基づく理論的に計算される宇宙の密度が、最近の宇宙観測により計測された密度より、120桁以上も大きいことがわかっており、このため宇宙創成についての理論がいろいろと提案されることになります。

1990年代、2000年代とホーキングは論文を発表し続けます。かなり数学的になりますが、弦理論(string theory)から出てきたブレーン(brane)宇宙という考え方も提案しています。弦理論では、粒子を空間に存在する1点として扱うのではなく、1本の線のように両端が開いた、あるいは輪ゴムのように閉じた、ひも(弦)と見なし、粒子の運動を弦に発生する波の運動と考えるのです。ブレーン宇宙というのは、宇宙を薄膜(membrane)と見立てる考え方です [6]。シェイクスピア劇「The Tempest(嵐)」に出てくる「O brave new world(ああ 素晴らしい新世界)」を連想させるタイトルの論文です。

ホーキングは2001年に出版した『The Universe in a Nutshell(日本語訳:ホーキング、未来を語る)』の第7章Brane New Worldの副題でDo we live on a brane or are we just holograms?と問いかけています。「人類はブレーンと言う薄膜の上にいるのだろうか、それともすべてがホログラムなのだろうか?」ホログラムとは薄いフィルムに記録された情報で、光を当てることにより3次元の立体画像が浮かび上がるものです。

2006年にホーキングは、これまでの、宇宙の初期状態を与えて、進化したあとの現在の宇宙を論ずるというボトムアップ的アプローチを捨て、トップダウン的な議論を展開しています [7]。現在の宇宙の姿の中に、初期の量子状態の名残があるはずだから、観測可能だ('top-down' cosmology is testable)と主張しています。

ホーキングの提唱した無境界量子状態のモデルでは、一つの宇宙ではなく、沸騰するお湯にできる気泡のように、いくつもの宇宙が出来上がり、局所的に永遠の膨張を続ける領域がいくつも現れることになります。宇宙は一つのまとまったuniverse(ユニバース)ではなくmultiverse(マルチバース)と呼ばれるような、多元的な宇宙の可能性を示唆しています[8]。そして、無境界量子状態を表す波動関数(no-boundary wave function)により、多元的な宇宙の観測の可能性を論じています [9]。

ホーキングは「最後の論文」で、宇宙初期に起こる量子論的宇宙から古典物理学的宇宙へのつながりを試みています。無境界量子状態から生み出された、永遠の膨張を続ける無数の宇宙の存在を意味するマルチバースに対して、数学的なホログラフィック理論を適用することにより、古典物理学で記述できる有限の数の宇宙が存在することを見出したのです[10]。

こうしてホーキングの宇宙論に対するアプローチをたどっていて、思い起こすのは、『A Brief History of Time』の最後に述べているホーキングの「what」と「why」についての言葉です。「現代の科学者は、『宇宙が何であるのか』という問いかけはしても、『宇宙はなぜ今のような状態にあるのか』と問うことを忘れてしまっている」。ホーキングは「人間原理」(anthropic principle : We see the universe the way it is because we exist.)(Chap. 8, A Brief History of Time)についても語っている。

我々の学びの過程で、忘れがちなのが「why」という根源的な問いかけなのかもしれません。学びの対象について、対象そのもの(what)を学ぶことにとらわれて、対象がなぜそうなのか(why)を問うことを忘れてはならないと、感じているところです。

1. Hawking, Occurrence of Singularities in Open Universes (1965).
2. Hawking and Penrose, The singularities of gravitational collapse and cosmology (1970).
3. Hawking, Black hole explosions? (1974)
4. Hawking, The boundary conditions of the universe (1981).
5. Hartle and Hawking, Wave function of the Universe (1983).
6. Hawking, Hertog and Reall, Brane new world (2000).
7. Hawking and Hertog, Populating the landscape: A top-down approach (2006).
8. Hartle, Hawking and Hertog, No-boundary measure in the regime of eternal inflation (2010).
9. Hartle, Hawking and Hertog, Local Observation in Eternal Inflation (2011).
10. Hawking and Hertog, A Smooth Exit from Eternal Inflation? (2018).

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2018年4月27日に発表されたホーキング「最後の論文」の表紙。
共著者はベルギーのルーヴェン大学のトーマス・ハートグ。

27. ホーキング(余命2年の宣告後、活躍を続けた宇宙物理学者の死) 

車椅子の科学者として知られたスティーブン・ホーキングは、1942年1月8日に生まれ、この春 3月14日に76歳の生涯を閉じました。亡くなる直前に書き上げた論文「A Smooth Exit from Eternal Inflation?」(永遠の膨張からのスムーズな離脱?)は1ヶ月以上経った4月27日、独科学雑誌Journal of High Energy Physicsに掲載され、まさにホーキングの「最後の論文」となりました。

ホーキング誕生のちょうど400年前の1542年に、コペルニクスが「天体の回転について」を書き上げ、出版を見ることなく、死んでいったことを思い出します。それまで、地球の周りをすべての天体が回っていると考えられていたのが、彼の論文により、太陽を中心として地球を含む惑星が回っていると認められたのです。科学の革命がこうして起こり、それはガリレオに受け継がれ、1642年、ガリレオが死んだ年に生まれたニュートンへと、つながっていきます。ホーキングはガリレオが亡くなった300年後のその日に生まれたのです。歴史上の天才の連鎖を感じます。

私がまだテネシー大学の大学院生時代、1976年のこと、アメリカ物理学会に出席して帰ってこられた物理学教授シェー先生が、「ホーキングの話を聞いたけれど、声が小さくて聞き取りにくかった」と話していたことを覚えています。当時34歳のイギリス人のホーキングが、アメリカ物理学会で、一般相対性理論における重力特異点についての研究に対して、賞を与えられて講演をしたのです。

その後、2001年のオーストラリアで開催されたプラズマ物理国際会議で、私の仲間がシドニー大学の友人の家に集まりました。南アフリカから来た、プラズマ物理学者のマンフレッド・ヘルバーグが、彼の学生時代の話をしてくれました。マンフレッドが英国のケンブリッジ大学の学生だった1963年ごろのこと。カフェテリアで、一緒に並んでいたクラスメートのホーキングが、目の前で持っていたトレイを落としたというのです。おそらくそれが、彼の病の最初の兆候だったのだろうと、マンフレッドは振り返っていました。

ケンブリッジの大学院生だったホーキングは、21歳の時、運動ニューロン(神経細胞)の変性を起こす病気の一つで、全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、余命2年といわれました。一時、絶望的になり、博士号をとることすら無意味に思えた彼が、どうして学び続けることができたのか。それは、「22歳で出会ったケンブリッジ大学の女子学生に恋をして、婚約したからだ」と、ホーキングは回想しています。「結婚するために、仕事を得なければならないから、博士号をとると決心し、その時人生で一番、一生懸命勉強した」というのです。ホーキングは学生結婚をして、3人の子供がいます。

ホーキングが40歳になるころには、子どもの学費と増え続ける医療費のために、本を執筆することを考えたのです。出版社に原稿を持って相談に行くと、数式が一つ入るごとに、読者は半減すると言われ、すべての数式を排除し、見事に数式なしの(たった一つの例外はアインシュタインの20180430-01.jpg)、宇宙についての本を著しました。1988年に出版されたこの著書「A Brief History of Time」は世界中で大反響を呼ぶことになります。

医者の初期の診断は当たらず、その後55年間、ホーキングは生き続け、アインシュタインに続く天才といわれるようになったのです。

私の友人マンフレッド・ヘルバーグがケンブリッジ大学を卒業して、ずいぶんと年数が経った頃です。ある国際会議ですっかり著名になっていたホーキングの講演を聞き、講演の直後、話に行ったら、「君のこと覚えているよ」というホーキングの言葉、それはコンピューターの画面に映し出されることで伝えられたそうです。その当時、ホーキングはすっかり声を失い、車いすに取り付けられた、ハンドクリッカーを親指で動かして、コンピューター操作により、人とのコミュニケーションをとっていたのです。

その後も彼の病状はゆっくりと進行し、次第に手の力が弱くなり、親指を動かすことさえできなくなってきました。それで、眼鏡に取り付けた赤外線装置によって、頬の筋肉の動きを検知するデバイスにより、本の執筆や合成音声による会話をしていたというのです。

さらにホーキングの身体能力は低下を続け、頬の筋肉さえも通信手段には使えなくなってきました。それでもホーキングの頭脳は明晰で、視力も衰えませんでした。視線認識を使った文字入力、文字認識、自動的に文章を予測する単語予測。進んでいく症状のステージに合わせて、最新鋭の技術が使われ、彼の生活を可能にして、研究活動を継続することができたのです。

それらの最新技術のおかげで、ホーキングは亡くなる10日前まで、合成音声(text-to-speech synthesizer)により、共同研究者と議論し、論文の執筆に携わることができたのです。そうして、彼の「最後の論文」は彼の死後1ヶ月以上経ってから、発表されることになったのでした。

26. 新学年の始まり

3月23日の学位記授与式(卒業式)、3月30日の退職者等辞令交付式、4月2日の新規採用者辞令交付式および入学式、4月4日の教職員総会をはじめとした、年度末、年度始めの行事が一段落です。卒業式、入学式ともに晴天に恵まれ、学部の式は講堂、大学院の式は三浦幸平メモリアルホールで行われました。ここで、式辞と総会で述べたことの一部を記して、新年度の出発としたいと思います。

(1) 学位記授与式(学部) 
講堂を埋め尽くした、中部大学を巣立つ卒業生に向けて。今後の生き方の心構えの指針が中部大学の建学の精神『不言実行、あてになる人間』にあることを強調。まず『不言実行』:百聞不如一見(ひゃくぶんはいっけんにしかず) 百見不如一考(ひゃっけんはいっこうにしかず) 百考不如一行(ひゃっこうはいっこうにしかず)(実行するためには、人の言うことをよく聞き、しっかりと自分の目で見て、自分の頭で考え、そして行動する)。そして、『あてになる人間』:百行不如一果(百行は一果にしかず。百の行いより一つの結果、どんなに行動をしても、成果を残さなければ意味がない)。結果を出すことで、初めて、あてになる人間として認められる。
(2)学位記授与式(大学院)
メモリアルホールで行われた大学院学位記授与式。オックスフォード大学研究グループの発表論文の紹介を通して、メッセージを発信。コンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進む中で、これまで人間にしかできないと思われていた仕事が、ロボットなどの機械に代わられようとしており、今後10年から20年程度で、人間が行う仕事の約半分が自動化される。過去に蓄積されたデータの中から、事例を見つければよいだけの仕事は、コンピューターでもできる仕事になる。存続することになるのは、人間の感性を活かし、Creativity とSocial Skillを必要とする職業。自分の持つ考え方を大事に、そして仲間との関係を大切に。
(3)入学式(学部)
今年は学園が80周年を迎える記念すべき年であり、まず学園の80年の歴史をふりかえる。そして、「セレンディピティ」という言葉を紹介。偶然に何かを発見する能力、と理解されているが、実際には問題意識を持っている人だけが、何かを発見できる、それが偶然のように見えるだけ。未知の世界に飛び込んでいくこと、仲間を増やすこと。7つの学部が春日井のキャンパスにある総合大学だからこそ、できることがある。
(4) 入学式(大学院)
20世紀の後半はデジタル化の波が来て、デジタイゼーション(digitization)が進行。20世紀終わりごろに始まったインターネットが、あっという間に広がり、世界の人口74億人のうち36億人がインターネットにつながっている。21世紀にはいって、情報流通と機械による処理のデジタル化はデジタライゼーション(digitalization)と呼ばれ、AIやIoTと言われるように、急速な展開を見せている。これからは専門知識を覚えるだけではなく、専門知識をいかに正しく使うかを学ぶことが必要。
(5) 教職員総会
『中部大学-学びの拠点を目指して』と題して、学園の80年、そしてこの一年を振り返り、これからの大学の在り方について、メモリアルホールいっぱいの教職員に対して語りかけた。
「教育」と言う文字には、上から目線で、教養のある者が無知なる者にたいして、知識と思想を教え、望ましいと思われる姿に育てていくと言う響きがある。最高学府である大学は、単なる知識やスキルを教えるのではなく、個々の才能を引き出す人間力創成の場でなければならない。大学は教員が学生を教える教育の場と言うより、学生・職員・教員がともに学び、それぞれの才能を引き出す学びの空間と位置づけるべきである。
プロクラステスのベッドを学びの場に持ち込んではならない。(プロクラステスはギリシャ神話にでてくる山賊で、旅人を捕まえては彼のベッドに括り付け、ベッドに合わせて、旅人が小さければ脚を引っ張って伸ばし、あるいは大きすぎると足をちょん切ったという話。)
大学と言う学びの場では規格にあわない者を排除してはならない。中部大学を学びの拠点とするため、今年度からスタートする、人間力創成総合教育センターを中心に、これから学びの構造を変えていく。学生・職員・教員がすべて学びのなかにあり、個を大事にして、一人一人の才能を見出し開花させる自由な学びの空間を作り上げていくことを力説した。

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学部2,385人、大学院124人が卒業(3月23日)

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学部2,673人、大学院125人の入学生を迎えた(4月2日)

25. 4月1日の思い出

平成30年4月1日。
春日井の朝はすがすがしく、春らしく桜も至る所満開となりました。
2月、3月となんと忙しかったことでしょう。何度かブログを書きかけて、中断してしまうと、書き始めた内容が続かなくなって、また新たな話しを始めたと思ったら、また中断。
とうとう4月になってしまいました。

そうした中で書きかけていたことを、日曜(4月1日)の朝の目覚めとともに思い出してコンピュータに向かっています。先日午前中、50号館で会議が終わって、建物の外に出ると、外はめずらしく小雨が降っていました。

あれっ? ここ昔来たことがある。不思議な感覚です-昔慣れ親しんだ場所。デジャヴ?

右手には人文学部の建物。ここは元の中部大学女子短期大学の入り口が残っていて、キャンパスの中でも少し趣の違う、華やかさを持ちつつ落ち着いた空間です。左手に、道を隔てて、洞雲亭の生け垣。ここには茶室「工法庵」と「爛柯軒」、書院「洞雲亭」があるので、静寂な空間を作り上げているところです。でも木が多くて見えるのは木々と生垣のみ。

デジャヴ(déjà vu、already seen)とは実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる既視感のことですが、この場合には僕の子どものときの記憶です。だから追憶という方が当たっているのかもしれません。

記憶は小学2年生の時に戻ります。家族は僕の生まれ故郷の大阪府吹田市から兵庫県川西市に引っ越してきました。猪名川を超えるとそこは兵庫県で、新しい住まいは「鶴の荘6条通り」にありました。まっすぐな道で、その日はしとしとと雨が降っていました。まっすぐな道の向こうに、池田市にある五月山(さつきやま)の白い展望台が見えるのです。

その鶴の荘6条通りのたたずまいが、50号館前のたたずまいに重なったのでした。ちょうど小雨が降っていたからでもあるのでしょう。鶴の荘6条通りには大きな家が並んでいて、生け垣の緑が多くて、道の両側に小さな浅い水路があり、水路にはところどころに水溜まりがもうけてあり、水路に入っては、そこに集まってくるザリガニを取ったものです。尺八と琴を教えている屋敷があり、家の外まで尺八の音が聞こえ、また別のお屋敷では踊りのお師匠さんが日本舞踊を教えているといった風でした。

そのころ、いじめというのはなくて、転校生は人気者でした。2学期になると学級選挙で学級委員に選ばれるぐらいでした。6条通りには学校の友達がよくやってきて、「少年探偵団ごっこ」、「かくれんぼ」、「はじめの一歩」、「缶けり」や「瓦(かわら)あて」をして遊んだものです。そういえば瓦あてに使う割れた屋根瓦は5条通りと6条通りをつなぐ路地裏にはいくらでも転がっていた時代でした。少し離れたところに瓦を立てて並べて、ボーリングのように別の瓦を転がしてあてっこするのです。ひろ子ちゃん、よう子ちゃん、みよちゃん、たみお、きよかず、たけし、きみお、たもつ。今でも思い出せるのが不思議です。そういえば、ターザンごっこをしていて、腕の骨を折ったのも6条通り。そのため僕の腕の長さは今でも左右違うのです。

引っ越しの日の雨の6条通り、それにつながって楽しかった小学校の思い出が戻ってきました。小学校2年生の4月1日、たまたまそれは昭和30年4月1日のことでした。

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50号館の前から見た小雨の中の風景は、小さいころ住んでいた「鶴の荘6条通り」を思い出させてくれた。(平成30年4月2日撮影)

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ネットで見つけた猪名川と五月山の写真に、小学生の時の写真を重ねてみた。山の中腹には白い展望台がある。われら少年探偵団は猪名川につながる土管を秘密基地にしていた。
[呉服橋(くれはばし)より撮影:http://www.hankyu.co.jp/ekiblo/hensyu_bu/6394/]

24. 中部大学のトイレとノーベル賞

9号館(講義棟)の外壁改修工事も昨年終わり、再び白亜の建物が美しいキャンパスになりました。改修中に撮った写真と現在の写真を並べてみます。きれいになった講義棟のトイレに入って、あっ、これだと思い出すことがありました。昨年のノーベル経済学賞です。

リチャード・セイラー(アメリカ)が行動経済学に対する貢献により、2017年度ノーベル経済学賞(Economic Sciences)を受賞しました。彼の著書「Nudge」(2008年、キャス・サンスティーンとの共著、邦訳「実践 行動経済学」)の中で、ノーベル賞に輝いた行動経済学の考え方が説明されています。それは強制的に物事をやらせるのではなく、人間の心理を考えて、行動をうながす工夫をすること、というものです。Nudgeというのは、「肘で軽くつつく」という意味で、特定の選択肢に意識を向けさせるために、軽くつつくようなことをするので、こうした行動科学の応用のことを「ナッジ」と呼ぶそうです。

その本の冒頭に説明されているのが、オランダのアムステルダム・スキポール空港のトイレのことです。男子トイレの床の清掃費削減のため、行動経済学が応用されています。小便器の内側に一匹のハエの絵を描くだけで、清掃費が8割減少したというのです。空港の清掃費削減の相談を受けた経済学者は、「トイレを汚さないようにご協力ください」という張り紙をする代わりに、ハエの絵を描いて、「人は的があると、そこに狙いを定める」という心理を巧みに応用して、小便器の周りが汚れるのを防いだというわけです。

中部大学の9号館のトイレでは、ハエの代わりに的として、二重丸の中を塗りつぶした図形(蛇の目(じゃのめ))が描かれています。「ナッジ」は中部大学の中にも使われているというわけです。経済学だけではなく、いろいろなところに応用できそうです。

リチャード・セイラーが12月10日のノーベル賞受賞式後の晩餐会で行ったスピーチの一節を紹介します(意訳してみました)。「大事なことは、人間は過ちを犯すもの(fallible creatures)だと言うことを認めるのです。そうすればよりよい決定をするにはどうしたらいいかを考えることができます。それは決して強制するのではなく、人間の心理や行動パターンを分析して、行動科学を応用すればいいのです。」

セイラーは日本に来たときに、相田みつを美術館を訪れています。そして相田みつをの
『しあわせはいつもじぶんのこころがきめる』

『にんげんだもの』
という言葉に出会い、その言葉の意味するところは行動経済学に通じるものがあると言っています。

行動科学の応用はすでにいろいろなところで使われているようです。セイラーが挙げる別の例。カーブする道路では、幅が狭くなるように線が引いてあるところがあります。自動車を運転しているときに運転手がこれを見ると、スピードを出しすぎているように錯覚し、無意識に減速することになります。これも減速することを強制しているわけではなく、安全のためにそうするように「ナッジ」している例だと言うのです。

イギリスのスターリング大学の行動科学センターで紹介されている「ナッジ」の例をあげてみます。イギリスでは税金滞納者への催促状にそれまで、「早く納めてください!」とお願いしていた文言を、「市民の多くが期限内に税金を納めています」というメッセージに変えたところ、当人は未納の少数派になってしまうと思い、メッセージを受け取ったらすぐに納税し、イギリス政府は大幅な税収増を実現したと報告されています。
アメリカでは「行動科学の応用に関する大統領令」(2015年9月)を出して、政策に行動科学を取り入れ、「原則加入」を前提とし、加入したくない人だけがその旨を申告する方式を導入して年金加入率の向上の成果を上げています。

教育の世界でも、行動科学を応用し、ナッジ理論を実践していきたいものだと考えるところです。

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改修中の9号館(講義棟)

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改修が終わり、白亜の美しい9号館(講義棟)

23. 新年を迎えて

新たな2018年の幕開けです。
年末は、東京体育館で行われた第70回全国高等学校バスケットボール選手権大会で、中部大学第一高等学校の父母とともにステイックバルーンを持って応援し、その後大阪の花園ラグビー場で行われた第97回全国高校ラグビーフットボール大会では、中部大学春日丘高等学校の生徒と一緒になってメガホンを握り、「鬼の鬼の鬼のスクラム」と叫び、応援しました。うれしいことに両校とも勝利を収めたのです。

さて、新年にあたって考えたことです。
UNIVERSITY、これは大学と訳されていますが、この言葉から大学のあり方を考えてみます。UNIは一つを表して、VERSは回るという意味。回転する物が一つになる。台風に伴う空気の流れや渦潮に伴う水の流れのように、社会の変化に応じて、変わり続けるいろいろな学問が一緒になって一つの渦を作って行く。そして渦になって変化を続ける学問を学ぶことができる、そんな場が大学だと思うのです。つまりUNIVERSITYは総合大学であり、総合知を身に着けることができる学びの拠点です。中部大学で学ぶ者すべてが総合的な学問という渦の中に入っていけるようにしたいと考えています。
EDUCATION、これは教育と訳されていますが、この言葉から教育のあり方を考えてみます。Eは「外に」という意味を表す接頭語で、DUCは「導く」という意味を含んでいます。自分の中に潜んでいる才能を外に引き出していくということがEDUCATIONです。従って、教育というのは学問を教授伝達することではなく、学問を一人一人の異なる才能が、どのように受け止めるのか、学問を学ぶことを通して、個々の才能を引っ張り出す、その過程が教育だと思うのです。自分の才能を引き出すために、学生は先生の言葉をメモし、考え、質問したり、意見を述べたりしなければなりません。先生の方でも、学問は変化していくものだから、学び続け、それを自分なりに解釈して、学生に話すという行為により、先生自身の才能を引き出していくことになります。つまり、教育とは、教える方も教わる方も共に学びの途上にあり、その中で個々の持つ独特の才能を見いだしていく過程なのではないでしょうか。

中部大学では学びを通して、進化する学問を受け入れ、自分の才能を開花させ、人間として生きる力を大きく作り上げていく、そんな場を作り上げたいと考えています。自分が選んだ専門を中心に、いろいろな学問を俯瞰して学んでいくのです。4月から、新たな総合学習の場である「人間力創成センター(仮称)」を立ち上げます。そこでは専門を横断するような、グローバルな教養を学び、個々人の中に個性豊かな人間力を作り上げていく、そんな学びの拠点になる場を立ち上げたいと考えています。

1月1日の新聞から。
朝日新聞では国際欄の幸福の議論「様々な幸福度のはかり方」が目にとまりました。世界の他の国々と比較すると、日本人は必ずしも幸福とは感じていないようです。自分の才能を見出し、自分のやりたいことを見つけて進むとき、幸福度は上がるのかもしれません。
中日新聞では社説「明治150年と民主主義」で、明治に始まった日本民主主義が振り返られます。そして今資本主義がもたらした広がる格差が取り上げられていました。それを読んで、私は現在拡大する教育の格差が気になりました。
日本経済新聞では1面の「パンゲアの扉 つながる世界」で、ネットで縮まった隔たりを取り上げ、つながる世界と、それにともなうグローバル化の問題を論じていました。パンゲアとはすべての陸地を表す言葉で、かつて一つにつながっていたと考えられる超大陸のことだそうです。確実に、世界はつながってきています。正月には南米で正月を迎えた娘と、そして北欧で正月を迎えた娘ともネットでつながりました。

1月3日の読売新聞では、「2018年大学トップメッセージ~未来を拓く若者たちへ~」として、他大学の学長と共にメッセージを発信しました。「不言実行、あてになる人間 春日井の丘から世界をのぞむ」と題して、「学びと探求の拠点として、世界に広がる地域社会との連携を大切にしていきたいと考えています。」と結びました。

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自宅で飾った鏡餅。学生寮の餅つき大会でついた、つきたての餅を学生さんが届けてくれました。

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