学長ブログ

22. ちゅとらのおうち

2017年の出生数は2年連続100万人を割り、過去最少の94万1千人、そして100歳以上の人口は6万8千人という厚生労働省の発表。比較のために挙げると1971年には、出生数が200万人で、100歳以上は339人です。年を追って若者が減り、高齢者が増えてきています。新卒採用、定年退職というこれまでの日本型雇用慣行のままでは、働く人が少なくなり、社会は成り立たなくなってしまいます。若者にとって、未来が見えにくい社会になっているのかもしれません。

『不言実行、あてになる人間』の建学の精神を掲げる学校法人中部大学は、来年80周年を迎え、学生・教職員すべてにとって、わくわくする未来を感じることができるような学びの拠点、探求の拠点となるように、教育・研究・文化・体育施設を備え、環境整備を続けています。その一つとしてキャンパス内に保育園を作ります。学園で働く子育て中の人が0歳から小学校就学前の子供を預けることができるのです。場所は幼児教育学科のある現代教育学部の建物の近くです。

保育園の名称は、学生・教職員から募集して選定され、親しみやすさから『学校法人中部大学保育園ちゅとらのおうち』と決まりました。最終候補に残った7名を表彰し、設置準備委員会のみなさまとともに来年6月開園を心待ちにして、記念写真を撮りました。私が膝に抱いているのが、中部大学のマスコット『ちゅとら』です。オープンキャンパスで、『ちゅとら』と並んで、一緒に撮った写真も載せておきます。

中部大学ファミリーが一人ひとり、個人の持てる力を、自ら見出し引き出していくことができる、そんな空間を、春日井の丘に作り上げて行きたいと思っています。保育園開設準備に関わる仲間の活動を見ていて、明るい未来を切り開く種がここにあると感じて、うれしい気分になりました。

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2017年12月21日 表彰者と設置準備委員会の委員と共に

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ちゅとらのおうち 完成イメージ図

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ちゅとらと並んで。オープンキャンパスにて

21. メロン

チバニアンは地球の地質年代を表す言葉でした。思い出したことがあります。チバという名前の猫のことです。学生結婚して二人でアメリカの留学を終えて、最初の職場がカナダの大学でした。留守番を兼ねて家を借りることになりました。その家にいたのが、黒と白の、気品のある顔をしたチバでした。二人とも、猫を飼ったことがなく、また特に猫が好きなわけでもなかったのですが、自由に生きるチバはなぜか好きになりました。犬は人につき、猫は家につく、と言いますが、確かにチバは家についているようでした。飼い主が変わっても、われ関せずという風な調子で、我々のそばにいました。ガレージから家に入るドアには、猫用の小さな扉があって夜中でもチバは出入り自由でした。

カナダからアメリカに移り、テキサスにいるときに、子供に児童文学斎藤洋作の『ルドルフとイッパイアッテナ(講談社)』を読み聞かせました。猫のルドルフがふるさとの中部地方を離れて東京に出てくる話です。ルドルフが猫の友達イッパイアッテナから、猫の教養について教わるのがおもしろいところです。日本に戻ったら中部地方へ行ってみたいものだと思っていました。

日本に戻ると、テキサス生まれの大学生の娘が下宿先で飼っていたメロンを、うちに連れてきました。東京では2階のベランダの手すりから、落ちたことがあります。マーク・レヴィが書いた『Why cats land on their feet (プリンストン大出版)』によると、猫は4つ足を延ばして体をよじらせて、体を回転させて着地するということです。これはスケート選手が伸ばした両手を縮めることによってくるくる回転することができることと同じ原理で、物理用語で言うところの、角運動量の保存です。ということで、メロンは2階から落ちても平気でした。

中部地方に引っ越しすることになりました。ルドルフはトラックによる移動でしたが、メロンは乗客の少ない年末に新幹線移動です。彼女は家につくのではなく、妻についているようです。私がつかまえて、だっこしてやると、しばらく私の顔をまじまじと見て、すぐに逃げていくのですが、妻には抱かれたがるのです。前足をそろえて、背筋をまっすぐにして、朝日を見ている姿は哲学者の雰囲気です。そういえば元飼い主の娘は、いまは大学院を出て哲学者の卵になっています。

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春日井に移って大好きなタワーに乗ったメロン。
朝日が出るときには前足をそろえて、窓越しに日が昇るのを見つめています。

20. 地球磁場の反転

地磁気が反転した痕跡を残す千葉県の地層が、約77万~12万6千年前の年代を代表するもので、この地質年代がチバニアン(ラテン語で千葉時代のこと)の名称がつく見通しと、11月13日の新聞各紙が報道しました。地球は大きな磁石になっていて、約46億年の地球の歴史の中で、過去に何回もN極とS極が入れ替わっており、磁力をもつ鉱物が含まれる岩石を調べて、最後に起こった逆転の時期を確定したということです。

チバニアンというネーミングが、親しみを呼び、さらに夢を膨らませてくれます。地球の歴史を思うとき、地球が太陽系の惑星の一つであり、生命の誕生は約38億年前にさかのぼることを改めて思い起こします。地質年代が確定できるのは約6億年前からで、古・中・新生代と分けられます。恐竜は中生代に存在し、チバニアンは6600万年前から始まる新生代の中のひとつの時代区分ということです。地球の歴史のスケールでは77万年前というのは、つい最近のような気がしてきます。

今では宇宙から、地球を丸ごと見られるようになりました。地球の半径は約6400キロメートルで、生命の営みは深海の深さと大気圏の厚みを含めてもほぼ15キロメートルです。大雑把に言うと、地球を直径1メートルの球と考えると、生命の活動は表面近くの1ミリに過ぎない。その下には5ミリ程度の地殻があり、そして岩石からなるマントル。マントルの上層部はマグマと呼ばれてどろどろしており、時々地表に噴出してきます。まさに私たちは、地球をリンゴにたとえれば、リンゴの皮のようなところに住んでいることになります。

リンゴに芯があるように、地球の中心のほうに核があります。核の中心部分は固体ですが、その外側は高温のどろどろした金属になっていると考えられています。ダイナモ理論として知られる考え方では、地球の自転に伴って、どろどろした金属流体の運動が電流を引き起こし、地球磁場を作ります。金属流体の運動がわずかでも方向を変えると、地球磁場の方向は変化することになります。たまたま現在は、地球自転の回転軸と地磁気の軸がほぼ同じ方向に向いているけれど、他の惑星では、様々な角度を持つ場合があること、火星や金星のように磁場を持たない惑星があることもわかっています。

カナダのサスカトゥーンに住んでいるときにオーロラがよく見られました。オーロラは、太陽から降り注ぐプラズマ粒子が地球の磁場に沿って、地球の大気に入り込み大気中の原子や分子と衝突し、そのエネルギーが光となる現象です。オーロラは北極や南極に近いところで見えることはよく知られていますが、サスカトゥーンは高緯度と言っても北緯52度。なぜそこでオーロラがよく見えたのか、考えてみました。(ちなみに札幌は43度、春日井は35度)。

コンパス(方位磁石)の針は南北を指しますが、北極に向かうにつれて、水平面で動いていた北を指す針が、下を向き、針が水平面に対して垂直になる地点は磁北極(magnetic north pole)と呼ばれています。私がカナダに住んでいたころは、磁北極はカナダの中にあったのが、今では北極に近いところに動いています。さらに地球を棒磁石と考えたときの、棒磁石の軸と地表との交点である地磁気北極(geomagnetic north pole)は30年の間に緯度で1.6度、経度で2度移動しています。

宇宙から見えるオーロラの光の帯は地理上の北極ではなく、地磁気北極を中心に存在することが衛星写真で明らかになっています。NASAの衛星が高度2万キロから撮影した地球とオーロラ帯を示し、その中でサスカトウーンの位置、北極の位置等を示しておきます。地磁気北極を中心に、光の帯を作っていることがわかります。この光の帯を地上から見るとオーロラに見えるわけです。確かに、サスカトゥーンは、光の帯に近いところにあることがわかり、だからオーロラがよく見えたことが納得できます。

地磁気極は確かに移動しています。その原因は地球の内部にある金属流体の運動ですが、その運動は未だ解明されていません。そして、チバニアンの地質年代の決め手となった磁場の反転の原因も今のところわかっていません。いつの日か、地磁気極の移動によって、日本の近傍にまでオーロラ帯がおりてくれば、日本でもオーロラが見えることになるかもしれません。一方、古くは、日本書紀、明月記などに、赤気と呼ばれるオーロラ現象の記述があります。さらに最近では1958年2月11日に日本海側沿いの北陸、東北、北海道で、火事と間違われるほどの赤いオーロラが目撃された記録が残っています。ただし、それら日本で観測されたオーロラは、長期間続いているわけではないので、磁気極の移動に伴うものではなく、太陽面の爆発を伴う太陽の異常活動により引き起こされた、オーロラ帯の拡大によるものと考えられるでしょう。

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オーロラの光の帯(オーロラオーバル)。地理上の北極でも、磁北極でもなく、地磁気北極の周りにリング状に見える。左に見える明るい部分は昼側。緑のラインで大陸の海岸線を示している。1981年11月、NASAのダイナミクス・エクスプローラー衛星が2万キロメートル上空から紫外線撮影。
http://www-pi.physics.uiowa.edu/sai/gallery/
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19. 核融合、核分裂

太陽のエネルギー、核融合に興味を持ち、横浜でプラズマの勉強を始めました。蛍光灯のような放電管を使い、電圧をかけてプラズマを発生させ、プラズマの境界層を制御する実験です。下宿で最初の英語論文を書き上げたときにはもう真夜中でした。大学院1年生。論文を書き上げたことがうれしくて、手元にあった時刻表を見て、行き先はどこでもいい、夜行列車に間に合うと分かったときには飛び出していました。翌早朝、長野に到着。思わぬ出来事があり、結局、横浜に戻ったのは次の日の夜になっていました。丸二日間、研究室では、石原がいないというので、大騒ぎになっていたそうで、翌朝、指導教授にこっぴどく叱られました。

その後アメリカに留学し、卒業後カナダのサスカトゥーンで、核融合の基礎研究に取り組みました。横浜出身の先輩がすでにカナダで活躍しておられ、先輩に招かれたのです。プラズマ中に乱流を作り出して、集団運動としての乱れのエネルギーを、プラズマの加熱に使おうという試みです。先輩と二人で次々と論文を発表し、アメリカとヨーロッパの国際会議に出かけてはサスカトゥーンにプラズマの研究者ありと、意気込んでいたものです。

カナダからテキサスに移ってからの研究の中心は、プラズマ中の集団運動そのものに興味を持ち、核融合というよりプラズマ基礎物理のほうに移っていきましたが、今日は、最近のニュースから、核融合についての話題を取り上げてみましょう。

太陽は、核融合反応にともなうエネルギーを放出しています。プラズマの温度を上げて、プラズマ中の原子核同士を衝突させると、核融合を起こします。始まりは水素です。原子番号1の水素同士が核融合により原子番号2のヘリウムとなり、次に水素とヘリウムが核融合を起こし、原子番号3のリチウムとなり、さらに原子番号4のベリリウム、原子番号5のホウ素、というように次々に元素が生成されて、原子番号26の鉄まで核融合反応により生成されます。核融合反応は鉄を生成するところで、止まります。1978年のノーベル賞講演でカピッツァ(1894-1984)は制御核融合について語っています。科学研究は、問題を見つけるものの、解決策は予期できないところからやってくる、だから面白いと。

自然界には原子番号92のウランまで存在します。ウランのように重い原子核は分裂してより軽い原子核となります。ウランは核分裂して原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンになります。核分裂も原子番号26の鉄まで分裂するとそれ以上は進行しません。鉄は安定な元素で、それ以上は分裂しないわけですが、では鉄より重い元素は、そもそもどのようにしてできたのか、という疑問が起こります。恒星の進化の最後と考えられる、超新星爆発に伴って、生成されたのだろうと考えられていました。

2016年7月、新しい元素が発見されたニュースが新聞をにぎわせました。原子番号30の亜鉛イオンを、原子番号83のビスマスイオンにぶつけて、核融合を起こし、原子番号113の元素(ニホニウムと命名されました)を作り出したというのです。しかし作られたニホニウムは安定に存在することなく、1分もしないうちに、核分裂し、より軽い元素に変化していくのです。

2017年10月3日、二つのブラックホールが合体した際に出た重力波を検出した3人の物理学者に、ノーベル物理学賞が与えられることが発表されました。時空のゆがみが宇宙を伝わってくるのを測定したということで、これによって光をはじめとする電磁波に頼っていた宇宙観測が、新たな観測道具を手に入れたことになります。

続いて10月16日、超高密度の天体である二つの中性子星の合体による重力波と、それに伴う放射線を帯びた金属性の破片の放出が観測されたことが報告されました。これまで鉄より重い元素は、超新星爆発で生まれると考えられてきたのが、中性子星の合体で生まれる可能性が出てきたのです。新しい答えが予期せぬところから出てきました。

中性子星合体からの重力波検出と重金属放出を突き止めたのは、世界中の約3500人の研究者が関わっています。近代科学の発展には、コペルニクス(1473-1543)・ガリレオ(1564-1642)・ニュートン(1642-1727)・マクスウェル(1831-1879)・アインシュタイン(1879-1955)といった天才の連鎖が寄与してきましたが、現代科学の発展は多くの研究者の協力体制によって、新たな発見が成し遂げられていくように思えます。地上に太陽を作るという核融合の夢は、現在国際協力による巨大プロジェクトとして続けられています。

横浜での指導教授の田中裕先生は、その後中部大学に移られ、私が中部大学に赴任した春に鎌倉で亡くなられました。そして、この11月、カナダで一緒に研究した先輩広瀬章先生の訃報が、サスカトゥーンから届きました。二人とも、私の人生に大きな影響を与えてくださったことを、感謝するとともに、ご冥福をお祈りします。

18. 幻日

11月にはいって秋晴れの日が続きました。11月2日、埼玉県川越市と入間市で幻日が見えたというニュースが目に留まりました(weathernews、11月2日川越市撮影13時、入間市撮影14時)。太陽の両脇に小さな幻の太陽が虹色に輝く現象です。その日埼玉は秋晴れで気温は朝方6℃ぐらいであったのが、午後には20℃近くに上がっていました。天気が下り坂の時に薄雲が広がってくると「幻日」が見られると、Weathernewsの解説にありました。ネットにあげられた写真を見ると、太陽の周りにはうっすらと雲が見え、太陽を通る水平線上の両脇に虹っぽい輝きが見えます。

このニュースに接して、カナダの冬になると毎日のように見えていたサンドッグ(sundog)のことを思い出しました。北米大陸中央部の、プレーリーと呼ばれる大平原にあるカナダ サスカチェワン州のサスカトゥーンに7年あまり住んでいました。北緯52度。北海道の宗谷岬が45.5度ですから、相当北に位置します。12月には-20~-35℃の寒い日が続きます。-40℃に達することもありました。乾燥しているので雪が降っても、雪の結晶がそのまま落ちてくるような感じです。道は交通量の多いところは雪が取り除いてありますが、歩く道は踏み固められていて用心深くそろそろ歩くことになります。

冬のある朝、車で大学に向かっているとき、目の前の南サスカチェワン川の向こうに朝日が昇る美しい光景を見ました。朝日は大地から顔を出して大きく光り、その輝く光の帯は空に向かってまっすぐ上に伸びているような感じです。さらに車を走らせると、南サスカチェワン川のほとりに沿って植えられた木々に隠れていた、本物の太陽が現れました。それは強烈な光を出して、俺が本物だといわんばかりの輝きでした。実は最初に見えたのは、サンドッグ(sundog)と呼ばれ、モックサン(mock sun)とも言われる偽りの太陽、幻日だったのです。気象用語で幻日のことは英語でparhelion (複数形はparhelia)と言います。

朝日に伴って現れる幻日を写真に撮ることは難しいことです。太陽に向かってカメラを向けるからです。ある日、夕日に伴って現れた幻日を撮ることに成功。1979年2月、午後5時、気温は-25℃でした。住んでいたアパートの前の駐車場で撮った写真です。中央のホンモノの太陽は電柱で隠すようにして2枚の写真をつなぎ合わせています。太陽の両側に幻日があります。写真では少し色づいた幻日(輝点)は外向きに白い光がのびています。夕方の薄暗い感じに撮れていますが、日没は6時頃でしたので、写真の時にはまだ明るい午後の感じでした。プロが撮った写真も掲載しておきます。一つは地元の新聞に載った白黒写真で、サスカトゥーンで南サスカチェワン川越しに撮影されたものです。もう一つはサスカトゥーンの西500kmにある、隣のアルバータ州のロングビューというところで撮影されたものです。ともに見事に太陽と、その両脇に見える幻日を一枚の写真にとらえています。アルバータ州の写真では、幻日は太陽に近い方が赤く色づいている様子が写し出されています。

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カナダの冬には特異な自然現象がみられる。空中の氷の結晶の屈折現象により中心の太陽(写真中央)の左右に太陽と見間違えるほどの明るい偽の太陽、サンドッグができる。我々の住んでいたサスカトゥーンのアパートの前の駐車場で撮影。1979年2月半ば午後5時、気温はー25℃。

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サスカトゥーンの地元紙Star Phoenixに掲載された南サスカチェワン川越しに見えるサンドッグの写真。記事には適切な説明が添えられていたのでそのまま引用します。Whenever there are ice crystals or frost in the air, sundogs may appear on either side of the sun. These mock suns, properly called parhelia, occur when the sun shines through a thin cloud composed of hexagonal ice crystals. They can create a halo or luminescent ring and usually the inner edges closest to the sun will appear reddish, while the outer portions are white. (Nancy Russel, November 4, 1978, Star Phoenix)

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幻日。Cally Coman 撮影。場所はサスカチェワン州の西隣のアルバータ州Longviewの近く。幻日は太陽に近い側が赤色、太陽から遠い側が紫色となっている。

サスカトゥーンでは毎年12月の始めには、サンドッグフェステイバルというのがあって、クラフト〔工芸〕の展示と即売会が行われていました。地元ではサンドッグは冬の風物詩であり、極寒の象徴でもありました。その名前を真冬に行われるフェステイバルの冠に使うことによって、地元の青年たちが地域の活性化を夢見たのでしょう。幻日が二つの輝点(視点vision)であるように、自分たちの作品を通して自分を磨く夢と、地域を活性化するという二つのビジョン(vision)を追いかけたのかもしれません。このブログを書くにあたって、サスカトゥーンのことをネットで調べてみると、今もってそのフェステイバルが続いていることを知りうれしく思ったところです。どうしてsundogというのか、その由来はよくわからないようですが、ネットで調べると北欧神話の中で描かれている、太陽を両脇から襲う2匹の犬(狼)という説があるということです。確かに二つの幻日ということで、sundogsという複数形でも用いられています。

サンドッグは極寒の地では良く知られる自然現象ですが、最初の冬には気がつかなかったのです。その理由のひとつは日の出、日の入りの時刻にあります。サスカトウーンは高緯度に位置するため、12月になると日の出は午前9時ごろで、日の入りが午後5時ごろです。まだ薄暗い朝8時には出勤し、暗くなった夕方6時ごろ帰宅する生活だったので、日の出、日の入りを見る機会が少なかったのです。もうひとつの理由は、着るもののせいだと思います。昼間も幻日は見えることも多いのですが、とにかく歩く道は凍っていて、外を歩くときには、ダウンのフードつきの膝まで隠れるパーカを着ています。ファスナーを閉めて、首の周りをしっかり守り、ファー付きフードをしっかり被り、前方に突き出すように伸ばせば、耳を完全に守り、吐く息で顔の前にある空間を暖め、-30℃の冷気があっても顔の皮膚が守られます。つまり前方しか見えない状態になります。そんなパーカを着ていれば、滑らないように下を向いて歩くし、空を見上げるためにはフードを上げなければならないので、立ち止まってなかなか太陽を見上げるということをしなかったのです。

虹は太陽を背にして、太陽の反対側を中心とした視半径42°の円弧として現れますが、幻日は太陽を中心として視半径22°なので、虹の半分ぐらいの広がりを持っています。虹は空中に浮く球状の雨粒による光の屈折と反射で、太陽と反対側にできるのに対して、幻日は、地面に対してほぼ平行に空中に浮かぶ六角板状の氷晶による屈折によって像を結びます。六角板状の氷晶は落下に伴う空気抵抗のために地面に対してほぼ水平に浮かびます。太陽光が入射する面と出ていく面が、60度の角度をなすため、氷晶は頂角60度のプリズムの役割を果たします。屈折した太陽光は、太陽から22°離れた位置からやってくるように見えるものが最も強くなって、太陽の両側に二つ輝点ができるようになるのです。通常、六角板状の氷晶の並び方は地面に対してほぼ平行になっているものの、水平からのばらつきにより輝点の上下に光の広がりを伴うことになります。

太陽が地面に近い日の出や日の入りの頃には、半径22°の環と太陽を貫く水平線の交わる点に幻日ができます。太陽が高くなると氷晶による像は太陽を囲む半径22°のぼんやりした光の環となり、ハロー(halo)、暈(うん、かさ)、特に太陽の周りにできるということで、日暈(にちうん、ひがさ)と呼ばれています。

幻日はサスカトゥーンのような極寒の地で、空中に氷晶が浮いているところでよく見られる現象です。それでは、どうして11月の秋晴れの日に、埼玉県で幻日が観測されたのかという疑問が残ります。それは薄雲(うすぐも)が広がっていたことに関係がありそうです。雲には地上付近にできるもの、上空にできるもの、その中間でできるものによって、雲の形状が変わり、薄雲と呼ばれるものは5~13km上空でできるということです。ジェット機に乗っておよそ10km上空を飛んでいるとき、外気は大体―55℃になっています。日本では1km上昇するごとに、気温は約6.5°C降下することが知られており、埼玉の薄雲があった上空は十分温度が低くて、六角板状の氷晶が空中に浮いていたものと考えられます。ただし、サスカトゥーンで日の出、日の入りに際して見られるような、強烈な幻日は、極寒の地に独特のものといえるかもしれません。

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(1)虹:虹は空中の水滴によって太陽と反対側に視半径42°の円弧を描く。これは球状の水滴の中で光の反射、屈折によって引き起こされる。さらに外側に薄く虹が見えることがある。視半径51°で、これは水滴の中で2回反射が起こることによるもので、色の並び方が逆になる。

(2)幻日:幻日は太陽の両脇にできる明るい輝点で、幻日の上下に光が伸びる。日の出、日の入りの頃は特に輝きを増し、外側に雲のような白い帯を引く。

(3)幻日は空中に浮かんでいる六角板上の氷晶による屈折により起こるもので、反射によらないため、太陽と同じ側に太陽の両脇に、視半径22°のところに見える。

17. 「大学」、連携協定

知の拠点: 中部大学は知の拠点、学びの拠点として、学生・教職員をはじめとしていろいろな人々と結びついています。大学は地域の人々にとっても、開かれた知の宝庫であり、人類の英知が蓄えられているところでもあります。数年前にスウェーデンにある、15世紀に創設された北欧で最古の、ウプサラ大学を訪れた時に、大学が街の中に溶け込んでいるようで、大学とコミュニティの一体感を感じました。それは私が住んでいたテキサスの大学と街との一体感に通じるところがありました。今日は、これからの大学や高等教育を考えるに当たって、大学制度の歴史的なことに思いを巡らせてみます。それというのも我々は9月に3つの連携協定を結んだからです。

University:  universityという言葉は、ラテン語のuniversitus(ウニベルシタス)からきており、一つの組織としての学びのギルド(guild of learners)を意味していました。11世紀末に創設されたイタリアのボローニヤ大学は、町と教会によって認可された学生による大学で、学生団体が教師を雇用していました。学長(組織の長)も学生のリーダーがなり、レクトル(Rector)と呼ばれました。さらにuniversityの言葉のルーツuniverse、ラテン語の"universum" [ウニベルスム、unus(one)+vertere(to turn)]は一つになる(turn into one)あるいは全部ひっくるめて(all taken together)という意味で、宇宙を表しています。universityがめざしたものは、職業訓練の場というより、体系だった学問を学ぶ高等教育を実施するところでした。

大学制度: 日本には7世紀の天智天皇のころ、唐の制度を取り入れて、官僚育成機関として作られた大学寮というものがありました。さらに平安もしくは室町時代に創設されたと考えられる日本最古の学校、足利学校は16世紀にフランシスコ・ザビエルにより「坂東の大学」として紹介されています。現在の日本の大学制度は明治維新の頃にヨーロッパの教育制度を取り入れて作られたもので、ヨーロッパの教育の最高学府の制度を取り入れたときに、大学という名前が使われたようです。さらに、第2次世界大戦後にアメリカの制度が取り入れられて、日本独特の大学制度が作られていきました。

大学の発祥: そこで、いま全国で教育改革が進行するとき、ヨーロッパにおける大学の発祥の原点に戻って、大学のあるべき姿を考えてみることは意味のあることに思えます。人間の叡智が作り上げた学問体系つまり知の体系に接することができて、学ぶ者個人にとって何が問題であるのか、ひいては人間にとって何が問題であるのか、という問いに学ぶ者自ら答えを見いだすきっかけを与えてくれるところが、ヨーロッパの大学でした。中世ヨーロッパの大学にあった共通の4つの基本科目は、神学、法学、医学、リベラルアーツです。そしてリベラルアーツはさらに三学(トリビアム(trivium); 文法grammar、修辞rhetoric、論理dialectic)と四学(クアドリビアム(quadrivium); 算術、幾何、音楽、天文)の7つの科目構成となっていました。リベラルアーツの三学をみてみると、文法は言葉の使い方、修辞は説得力ある文章の作り方、論理は会話の中で論理的な議論をすることを表していることを考えると、三学はまさに、現代で強調するところのコミュニケーション能力といえるでしょう。そして四学は社会人として必要な知識・学問ということになるでしょう。こうした科目構成はギリシャ自然哲学の流れをくむもので、16世紀に、画家ラファエロがバチカン宮殿の署名の間の壁に描いた「アテネの学堂」からもうかがえます。そこには、哲学者プラトンとアリストテレスを中心に、両脇に音楽の神アポロンと、知恵の神アテナの彫像を配し、算術・幾何のピタゴラス、ユークリッド、天文のプトレマイオスはじめ多くの自然哲学者が描かれていて、知の体系を作り出した源を感じるところです。

Education:  大学における教育は、education【e(ex、out of)+duc(lead)】の言葉が示すように、語源的には引き出す、つまり個人の潜在能力を引き出すことであり、必ずしも、決められた望ましいと考えられる目標の姿に働きかけることではないでしょう。Educationの訳として使われた「教育」という言葉で理解されていたのは、人間には望ましい、こうあるべきという設定された姿があり、それに向かって人間を枠にはめていくという考え方であったように思えます。大学はeducation(個人の能力を引き出すプロセス)を通して、人格形成をする場であり、training(目的に向かって訓練するプロセス)を主とする場とは異なっています。大学で学ぶものは専門的知識そのものというより、物事を包括的に見て、その中で人間を豊かにし、人間性を高貴なものとするために、その専門的な知識が、いかに使われるべきかを考えることができる教養だと思われます。大学での教育の成果は、学業の成績が上がるかどうかより、学びを修めた一人一人が、その後の人生や生き方において、大きな影響を与えることができるかにかかっていると言っていいでしょう。一人ひとりの生き方が自分自身で見えてくれば、社会に出て活躍できる準備ができたと言うことになるでしょう。

社会の変化: ヨーロッパでは、16世紀から17世紀にかけて、コペルニクス(1473-1543、クラクフ大学、ボローニャ大学、パドヴァ大学、フェラーラ大学)、ガリレオ(1564-1642、ピサ大学、パドヴァ大学)、ニュートン(1642-1727、ケンブリッジ大学)に代表される科学革命と、その後に起こる産業革命は社会に大きな影響を与えました。大陸ヨーロッパでは大学での学びは、実践よりも学問色が強かったわけですが、15世紀初頭に創設されたスコットランドの大学では実学教育が重んじられており、18世紀には経済学者『国富論』のアダム・スミスや蒸気機関のジェームズ・ワットが、大学から育っています。近代化を急ぐ明治政府は、実学を重んじるスコットランドの教育制度を取り入れたのです。その後大学における専門分野は、人文科学、社会科学、自然科学をはじめとして、広がりを持ち、日本においても、また世界においても大学の数は拡大してきました。人間にとって何が問題であるのか、という根源的な問いをするところの大学が、ややもすると技術的、職業的な知識体系だけを教える場となる恐れも出てきました。ヨーロッパで大学が誕生してから900年経ったこともあって、欧州の大学教育の見直しが行われ、1999年にボローニャ宣言が出され、欧州高等教育圏の形成を目指し、欧州連合の中での大学間の連携が始まりました。音程を決められた高さに合わせるときや、ラジオの周波数を合わせるときなどに使われるチューニング(tuning、調律、同調)と言う言葉で、ヨーロッパ各国の高等教育システムの互換性が図られています。現在も進行中のそのプロセスで興味深いことは、個別の教育プログラムの有効性や必要性について、ステークホルダー(stakeholder、利害関係者)との協議に基づいて検証することがうたわれていることです。チューニングにより大学間のつながりが生まれ、その動きは南北アメリカ、ロシアなどでも広がっています。

中部大学: 中部大学では、キャンパスが学びと文化の中心となり、学生、教職員そして地域の人々が交流を通して、ともに人間的に育っていく、そんな教育空間を作り上げたいと思っています。中部大学にとってのステークホルダーは学生・教職員・卒業生・保護者・校友(寄付者など大学の未来に関心を寄せる人々)、そして入学を考える生徒ということになるでしょう。中部大学ファミリーとして、卒業生の同窓会組織や保護者の後援会組織が、活動しています。7学部6研究科をもつ春日井キャンパスでは、専門を超えて学ぶ者が交差する空間があります。チューニングによって、他大学との行き来が盛んになり、学ぶものの教育空間の場が広がります。チューニングと言う概念を大学間から、社会と大学の関係にまで広げると、それは社会が必要とする学生を育てる教育環境を、われわれが作っているかを問うことであります。そこで、中部大学では、学ぶものの持てる才能を引き出すために、知の拠点としての学内における専門家集団を超えて、学外にも、あらゆる機会を捉えて、地域社会、世界に連携を求めています。つまり、様々な形で、大学以外のコミュニティとの連携を進めているのです。ステークホルダーとの協議を進め、教育改革を進めていくつもりです。

夏休み明けの9月は連携の動きが続きました。名古屋銀行と中部大学は、人材交流と地域経済に関する情報交換を通して、学生を巻き込んで地方の活性化を図ろう、地方創生の諸課題にともに取り組もうということで、協定を結びました(写真1)。

愛知学院大学と、教育研究及び社会貢献活動の分野で包括的に協力関係を築き、学びの世界を広げるために大学間連携に関する包括的協定を締結しました。中部地域における1万人を超える学生を抱えた二つの大学が連携することにより、学生・教職員の学びの教育環境を大幅に広げることができることを期待しています(写真2)。

春日井市に隣接する豊山町と連携・協力に関する協定を結びました。すでに春日井市とは協定を結び、様々な地域連携の活動がおこなわれており、それを今度は豊山町にも広げようというものです。豊山町には航空宇宙関連の企業、空港もあります。中部大学では来年、宇宙航空理工学科が開設されることもあり、様々な交流を期待しています(写真3)。

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(1)名古屋銀行の藤原一朗頭取と協定書に署名
(2)愛知学院大学の佐藤悦成学長と協定書に署名
(3)愛知県西春日井郡豊山町の服部正樹町長と協定書に署名

16. ベーゼンドルファー

中部大学には宝物がいっぱいある。その一つは間違いなく、ベーゼンドルファーでしょう。

第83回中部大学キャンパスコンサートが、9月16日に三浦幸平メモリアルホールで開催されました。今年2月にもこのステージで開かれた「百々あずさ ソプラノリサイタル」で、ピアニスト水村さおりのピアノ演奏を聴く機会があったのですが、今回は本学の教員でもある水村先生がキャンパスコンサートアドバイザーとして、春日井市が生んだ若き新星24歳のピアニストを紹介してくださいました。

450人の観客を集めたホールは、「演奏会の雰囲気はお客さんと一緒に作るもの」という、水村先生の言葉通り、凛とした中に、親しみのある雰囲気となりました。特に地元出身で、この6月に英国王立音楽院を修了し、国際ピアノコンクールでいくつも賞をとっていることもあって、若きピアニストに対して、会場は特別の感情があったように思いました。私の席の後ろで、上品なご婦人方が話の中に、慧君と言っておられるのが聞こえていました。

ピアニスト内匠慧(たくみけい)は気品のある容姿とともに、話す中に隠れたユーモアが混じっていました。ベーゼンドルファーは味わい深い音色を出すけれど、大音量が出しにくい特徴があるのですよと話したあと、演奏が始まりました。エチュード「無秩序」から始まり、弾き終わって、水村先生の質問で、内匠さんは電子楽譜を使っていることが明かされ、音楽の世界にも新しい科学技術が取り入れられていることを感じました。リゲティ、ベートーヴェンなど、たっぷり2時間のすばらしいコンサートでした。

三浦幸平メモリアルホールは、初代学長三浦幸平先生の生誕100年を記念して建てられ、1992年5月13日に開館披露が行われ、披露の会のあとその場でピアノコンサートが開かれています。ホールは音響効果に注意が払われてコンサートに最適となるように作られており、その披露に合わせて、ベーゼンドルファー・インペリアルのお披露目が行われたわけです。

オーストリア・ウイーンで作られたピアノの名器ベーゼンドルファー・インペリアルですが、近づいてよく見ると驚いたことに「1991.6.22 Paul Badura-Skoda」のサインがありました。パウル・バドゥラ=スコダは現在90歳になるウイーン三羽烏の一人といわれるピアニストです。

1992年6月13日に第11回キャンパスコンサートが三浦幸平メモリアルホールで開かれ、それ以降ベーゼンドルファーが春日井市民、そして中部大学学生・教職員を楽しませてくれます。それから25年が経ち、第83回コンサートを聴きながら、名器ベーゼンドルファーが一流ピアニスト水村先生を本学に引き寄せ、さらに、世界で活躍する一流の音楽家たちとつながっていくのだなと、思いを巡らしていました。

中部大学には宝物がいっぱいある。
11,000人を超える学生と1,500人からなる教職員一人ひとりが、宝物であり、大事に大事にしたい存在だと、ベーゼンドルファーの響きを聴きながら考えました。

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三浦幸平メモリアルホールのベーゼンドルファー・インペリアル

15. 軍事研究

9月15日、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが、北海道襟裳岬東方の約2,200キロの太平洋上に落下したというニュースが飛び込んできました。その少し前には核開発に従事している科学者を、北朝鮮では英雄視していると伝えられました。

一方、日本では軍事技術に応用可能な研究に対する助成として、防衛省の外局である防衛装備庁が、110億円の予算で、14件の研究課題を採択したと発表しました(8月30日、中日新聞)。

さて、今日は軍事研究に関連して、横浜国立大学工学部の安全工学科を立ち上げた北川徹三先生の話をします。1960年代のこと、私はできたばかりの学科に入学し、北川先生から安全工学を学びました。先生は京都帝国大学大学院で原子物理学者、荒勝文策教授の元で、1937年まで学ばれました。当時の日本は、第1次世界大戦(1914-1918)の戦勝国として国際連盟の常任理事国でしたが、満州国建国(1932)を全加盟国から非難されたため、国際連盟を脱退(1933)し、日中戦争が起こり(1937)、第2次世界大戦(1939-1945)が始まろうとするころでした。

そのころアメリカではマンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾の開発が進んでいました。日本でも、ウランの分離による原子爆弾の研究に取り組んでいたのです。東京帝国大学を卒業して理化学研究所で研究していた仁科芳雄(1890-1951)が陸軍の研究に携わり、京都帝国大学を卒業した荒勝文策 (1890-1973)が海軍の命を受けて京都帝国大学の研究室を中心に、京都帝大の湯川秀樹(1907-1981)、名古屋帝大の坂田昌一(1911-1970)をはじめ大阪帝大、東北帝大の物理学者らとともに原爆開発にかかわっていました。

北川先生は京都帝国大学を出て、東京にある海軍の研究所で働いていました。そこで、1945年8月6日を迎えることになったのです。先生の働いていた研究所に海軍省から電話で、広島が特殊爆弾で被爆したとの知らせが来て、密命を受けて研究所から10人の調査団が広島に送られます。

調査団に加わった37歳の北川先生は、8月8日早朝には廃墟となった広島に入り、現地調査。翌日8月9日、同じような爆弾が長崎に投下されたことと、ソ連が対日宣戦を布告、満州に侵入という知らせが届きました。急遽、調査団の大部分が東京に戻ることになるも、北川先生は10日に広島で予定されていた陸海軍合同研究会に出席。研究会で、仁科芳雄博士、荒勝文策教授らとともに特殊爆弾は「原子爆弾ナリト認ム」と結論。この報告が終戦の判断に影響を与えたとされています。先生が東京に戻られてすぐに8月15日の終戦となりました。

調査団のことは、1986年に出版された「原子爆弾災害調査の思い出―一物理学者の見たもの」(篠原健一、Isotope News)に記述があります。そして2013年に出版された「証言録 海軍反省会」の中で、海軍の核兵器研究の項目に掲載されています。北川先生の名前は証言録の中で出てきます。三井再男海軍大佐の、被爆地調査についての証言の中に、

「今の水を飲むなという話ね、そういうことを言ってもらいたかったんです。安井(保門・兵51)さんと一緒に行った北川(徹三)という技術中佐も、それから早川(龍雄・技術中尉)もあれもみんな血尿が出ているんですよ、帰ってから。水を飲んでいるんです。放射能被害」

(原文のまま、安井とは当時、調査団の団長であった安井保門海軍大佐のことで、その団員の中に北川先生がいたということです。)

さらに、2015年に京都大学で、荒勝研究室に属していた研究者が残した研究ノートが見つかっています。終戦後、連合国総司令部が理研や京都帝大を捜索し、原爆開発の資料をほとんど持ち去り、歴史の検証ができない状態になっていたようです。

我々学生に対して、原爆のことについて語ることがなかった先生は、写真を含めた調査記録を鞄にひとまとめにして保存されていたそうです。先生は1983年、76歳で亡くなられました。息子さんが、北川先生の残されたものを広島のミュージアムに寄贈されています(中國新聞、2014年5月12日)。その中には広島で撮られたきのこ雲のオリジナルプリントもありました。晩年、北川先生が残された文章に、「私がいま一生を捧げて安全工学に専念する動機になったものは、この原爆調査ではなかっただろうか(中略)調査を体験した者の実感として、再びこのような惨害が繰り返されないように、世界の核軍備をもつ国の人々に訴えたいと思う」とあります。

あまりにも悲惨な広島の現実を、被爆直後に見ることになった数少ない日本人科学者の一人であった先生は、容易に言葉に出せるものではなかったのでしょう。私をはじめクラスのものはだれ一人、先生から直接原爆の話を聞くことはありませんでした。ただ安全工学の考え方を我々に教えることで、科学技術は人類のためのものである、ということを強調されていたのでしょう。高度経済成長という名前に隠れて、経済最優先の社会で進む環境汚染・環境破壊に警鐘をならしておられたのかもしれません。

アメリカの原爆開発は原爆の父といわれたロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主導者として、その下にはのちに水爆の父といわれたエドワード・テラー(1908-2003)をはじめ、ヨーロッパから亡命してきた多くの物理学者がいました。日本でも、陸軍・海軍のもとで日本を代表する物理学者、仁科芳雄(クラインー仁科の散乱断面積公式、1946年文化勲章)、荒勝文策 (原子核人工変換実験、1961年紫綬褒章)、湯川秀樹(中間子理論、1949年ノーベル賞)、坂田昌一(素粒子の坂田模型、1950年恩賜賞)らが原爆開発にかかわってきたのです。

中部大学では2016年4月に、本学の研究者は戦争を目的とする科学研究は行わないとする申し合わせ事項を決めています。また、日本学術会議は今年4月、大学での軍事的研究を問題視し、防衛装備庁の研究助成制度について、政府による介入が著しく、問題が多いと指摘しています。

14. 夏の終わり(2) 竜巻

ドロシーは犬のトトと一緒に不思議の国オズにいき、そこで魔法使いと出会います。「オズの魔法使い」で、ドロシーとトトを不思議の国に連れて行ったのは竜巻でした。今日は夏の報告とともに竜巻の話題です。

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8月7日立秋の日に、台風5号によって、大荒れの天気となった東海地方(天気図[1])。愛知県では午前11時から午後10時まで、5度にわたって竜巻注意情報が出され、春日井市では一日中断続的に、雷注意報がでていました。午後4時半ごろ、豊橋で竜巻被害が伝えられました。春日井では、夕方雷と稲妻がひどくて、慌ててコンピュータの電源を落としたら、その後再起動時にエラーが出て、コンピュータをもとの状態に戻すのに、大変な時間を使う羽目になりました。

8月9~11日はオープンキャンパス。11日は雨に降られましたが、それでも3日間で9300人来学(写真)。入学センターが中心になって、教員、職員と学生、そして中部大学マスコットのちゅとらがおもてなし。まさに中部大学ファミリーが総出で高校生を歓迎している気がしました。

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高校生が熱心に聞き入る模擬講義。オープンキャンパスでは、ちゅとらが大活躍。

8月18日。真夜中近い23時35分。スマホに緊急警報の知らせ。避難勧告。この日春日井市は朝から不安定な天気で、怪しげな空模様と大雨が続く。豪雨となり、東濃地方で庄内川の上流にある土岐川の水量が増え、庄内川が増水して氾濫寸前までいきました。情報に気を付けながらも、日付変わって午前0時40分、大雨警報・洪水警報と春日井市の一大事が続く。ようやくすべての勧告、警報が解除されたのは19日午前4時32分。18日0時から19日午前4時までの28時間に、春日井市近辺で雨量は200ミリを超えたそうです。日本海および日本列島の東にある低気圧に向かって南から暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が不安定となり豪雨がもたらされたのです(天気図[2])。愛知県西部では午前中に一度竜巻注意情報が出て、その後午後8時半以降真夜中まで何度も竜巻注意情報が出されていました。

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この夏日本中、豪雨に見舞われるところが多く発生しました。ところによっては竜巻も発生しています。どうして日本でも竜巻が発生するのだろうかと思って、ここでテキサスの竜巻の話をすることにします。私の住んでいた地域は、竜巻でよく知られていたのです。

まず私がスケッチしたアメリカの地図を見てください。アメリカは面積が日本の25倍あり、南部にあるテキサス州だけでも日本の1.8倍あります。アメリカ大陸は海に囲まれています。西に太平洋、東に大西洋、南にメキシコ湾があり、そして北には北極海があります。大陸の中では海岸沿いに南北に延びる二つの大きな山脈によって特徴付けられています。西にロッキー山脈、そして東にアパラチア山脈です(図)。南北に位置するメキシコ湾と北極海、そして二つの山脈が竜巻発生に大きな役割をしています。竜巻発生はロッキー山脈の東、アパラチア山脈の西側に集中しています。

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私が住んでいた西テキサスにあるラボック市は、春になると必ず短時間の豪雨を伴った竜巻に襲われていました。竜巻街道(Tornado Alley)と呼ばれるところに位置しているのです。1970年5月には、市が壊滅的な打撃を受けています。竜巻が市の中心部をなめるように移動して壊滅させたのです。竜巻スケールはF5(住家は跡形もなく吹き飛ばされ、自動車、列車などがもち上げられて飛行する)だったそうです。竜巻の規模を表すために発生した被害の状況からFスケールが使われます。気象庁によると日本ではこれまでにF4(住家がバラバラになって辺りに飛散し、列車が吹き飛ばされる)以上は観測されていないということです。

その後レーダーを使って雨雲の動きを観測することができるようになり、竜巻予報が出るようになっていました。テレビ画面の左下コーナーに小さな記号が現れるのです(図)。雨雲が現れて、猛烈な雨と雷を伴う嵐が来るときは黒雲の下に稲妻のマークがでて、雷を伴う嵐(severe thunderstorm)に注意。そして竜巻が起こる条件がそろった場合には、竜巻マークが現れます。白塗りの竜巻印は竜巻注意報で、竜巻印が真っ黒になると竜巻警報です。警報が出ると、もうどこかに身を隠さなければなりません。外にいるときに突然黒雲が現れて、辺りが暗くなり、黒というより、恐ろしくて汚い緑色を帯びたような黒雲が見えたら、竜巻が空から下がってきて地上に到達(タッチダウン)する可能性大です。

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春になると、メキシコ湾で暖められた湿った空気がロッキー山脈に沿って北上し、一方北極海からカナダを通って、ロッキー山脈に沿って南下してくる冷たく乾いた空気とぶつかり合うのが、我々の住む西テキサスのあたりだったのです。竜巻の発生メカニズムはまだ完全には解明できていない状況ですが、テキサス工科大学で行った講義で使った図を使って、豪雨を伴った竜巻が生まれる様子を説明してみます。

湿った暖かい空気が、乾いた冷たい空気とぶつかり合うところで、湿った暖かい空気が急激に上昇することにより、温度の低下が起こり雲ができ、発達した雲は短時間で巨大な積乱雲となります(図参照)。積乱雲のてっぺんは上空20kmにも達することがあります。通常の雨雲は数百メートルですから、その高さはとてつもないものです。そして雲の中で、風が一様でなく吹いていると、回転を始めることがあり、地上では上昇した分の空気を補うように周辺から空気が吸い上げられていきます。スーパーセルと呼ばれる特別大きな積乱雲の中では、上下の風向差が円筒状の渦を作りだし、細長い風の渦が上昇気流によって不安定となり、細長い円筒が折れて、円筒の先端が漏斗状になって地面に向かって伸びて来ることがあります。いわゆるタッチダウンによって、地上の家や自動車までもが吸い上げられていくことがあるのです。ピンポイントで、狙ったものだけが吸い上げられていくようで、ここにオズの魔法使いの話ができる素地があります。

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ここで、春日井市の夏に話を戻します。8月7日、台風接近時15時の天気図と、18日15時の天気図を、再び見てみましょう。アメリカ大陸で起こるような竜巻が発生する条件が整ったのでしょうか。

7日は日本の南にある台風が、暖かくて湿った空気を北に向かって運んできて、北海道の東にある乾いた冷たい空気を含んだ低気圧とぶつかりそうな気配です。18日15時の天気図によれば、やはり、日本の南にある湿った暖かい空気が、日本海および日本列島東に位置する乾いた冷たい空気を運ぶ低気圧とぶつかりそうです。7日、18日とも空気の流れが、日本列島に沿って、南から暖かく湿った空気、北から冷たく乾いた空気のぶつかり合いとなっているように思えます。まさにアメリカ大陸でいつも春先に起こっていたような竜巻現象が起こる条件が作られているようです。そうすると日本列島自身が、まるでアメリカ大陸におけるロッキー山脈のような働きをして、日本列島に沿って南から来る湿った暖かい空気と、北から降りてくる乾いた冷たい空気がぶつかり、その結果日本列島の海岸沿いが竜巻に襲われたのかもしれません。もし湿った暖かい空気と、乾いた冷たい空気が日本列島の西側でぶつかれば、日本列島の西側海岸沿いに竜巻は、同じように起こるかもしれません。

地球温暖化に伴って起こる、太平洋海域の温度上昇は、暖かく湿った空気を大量に作り出し、これまで起こっていた自然現象を、とてつもないスケールに広げているように感じるところです。

追記:このブログを書いてから、アメリカでもこれまでにないハリケーンが大きな被害をもたらしていたのでここに付け加えておきます。8月27日、ハリケーン「ハービー」はテキサス州を襲い、ヒューストン周辺では24時間に610ミリの雨を降らせ、ヒューストンの大半を水に浸からせるという未曾有の洪水を引き起こし、米史上で最も経済被害が大きいハリケーンの一つといわれています。しかし9月10日にフロリダ州を襲ったハリケーン「イルマ」は、ハービーを上回り、複数の都市で洪水、大規模な停電を引き起こしていると伝えられています。

13. 夏の終わり(1) 白内障

久しぶりに書きだします。
8月の初めに左目の白内障の手術をして、日帰り手術でしたが、その後今に至るまで、一日4回の目薬を差すことになり、ゆっくりとモノを書く心のゆとりがなくなっていたのです。白内障手術ではレンズの役割をする濁った水晶体を取り出して、人工レンズを入れてもらいました。新しく入った左目の人工レンズは遠くに焦点が合うようになり、眼鏡なしで人の顔がはっきり見えるようになりました(写真)。遠くから人の目元がはっきり見えるのは感激でした。これまではそこまではっきりと見えていなかったことに気がつきました。ところが術後、日が経つにつれて、右左の視力の差から、疲れやすくなり、一日の終わりにはぐったりとしてしまうのです。今のところ眼鏡なしで、遠くは左目で、近くは右目で見るというところです。これまでは左目は眼鏡でも視力調整に限界があったわけです。これは視力が落ち着いた2か月後に眼鏡を作ることにより調整できることを期待しています。

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夏を振り返ってみるところからブログ再開です。今回は夏の近況報告です。

7月の後半はまるまる4日かけて、7つの学部と6つの大学院研究科の正副学部長・研究科長、学部事務長と学長・副学長との個別面接を実施、各部署の現状と今後についての議論。特に予算が関わるところを中心に新規事業について意見交換です。

7月31日。特に教育面で顕著な活躍をした教員の教育活動顕彰授賞式。17人に教育活動優秀賞、そして3年間を通じて学生の授業評価等で優れた評価を得た1人と、5年間スポーツ顧問・監督として学生指導に取り組み成果を上げた1人に特別賞を授与しました(写真)。専任・非常勤教員1006人の中から、厳しい審査を経て選ばれた先生方は中部大学の教育者としての手本となります。

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8月3日、学校法人中部大学の併設中学校と二つの高校の運営に関わる先生方と、大学側から関係者が集まっての研修会を開きました。10時間かけて、中学・高校の現状分析と今後の教育方針についての議論をしました。それぞれの学校に中部大学の冠がついて2年目となります。つまり、「中部大学第一高等学校」、「中部大学春日丘中学校・高等学校」と名称変更することによって、呼び名が変わっただけですが、この研修会を通して中部大学ファミリーの結びつきがより強まったように感じるところです。

8月5日は大学内の三浦幸平メモリアルホールで、中部大学学長杯争奪LEGOロボットコンテスト。これは小中高生を対象にしたもので、自律型ロボットによる国際ロボットコンテストの国内予選会を兼ねています。小学生、中学生、高校生が東海地区から集まり、会場は熱気に包まれていました(写真)。工学部で3年前に設立されたロボット理工学科の学生・教員・職員が中心になって、また来年4月設置の宇宙航空理工学科の先生方・事務職員の協力も得て運営が行われました。

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